浜松には、徳川家康と武田信玄との三方ヶ原の合戦ゆかりのお菓子があります。
御菓子司「あおい」の小豆餅と銭取です。
「あおい」の小豆餅銭取の由来によると
「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。
その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。
何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ余り追いかけ、とうとう家康から銭を取ったとのことです。
この時、餅を食べたところを「小豆餅」銭を取ったところを「銭取」という地名になったと言われ、浜松の一角に小豆餅、銭取として遠州バスの上り、下りのバス停として残っています。」
Wikipediaによると
「徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べたことする伝説に由来する。
このエピソードにはさらに続きがある。家康が小豆餅を食べている時に武田軍が追ってきたため、家康は代金を払わずに馬に乗って逃げた。しかし茶屋の老婆が走って家康を追いかけ、やっと追いついて家康に代金を支払わせた。この老婆が家康に追いついたところが「銭取」という地名として残った。現在は町名としては存在せず、遠州鉄道の路線バスのバス停(気賀三ヶ日線ほか40番台系統。行政地名としては中区和合町)として残っているのみである。
この逸話は後世の創作で、実際には三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を備える習慣が続いたことが地名の由来である。『浜松風土記』には慶長年間のこととして、浜松城主堀尾忠氏の弟高階晴久が三方ヶ原に立ち寄り茶店で小豆餅を食べたところ、次々と奇怪な出来事が起こったので慌てて店を飛び出し、町まで逃げ帰った。翌日、晴久は多数の供をつれて昨日の場所に行くと、うら寂しい大野原に三方ヶ原の戦いの戦死者の白骨が散乱していたので、掻き集めて焚いて埋め、小豆餅を供えて大念仏で法事を営んだことが由来であるとの記述がある。また同様に、銭取はこの辺りに山賊がよく現れたことに由来する(山賊に銭を取られるため)。三方ヶ原の戦いがあった時期、三方原台地に民家まして茶屋などは存在しなかったが、当時の家康の必死の逃亡をよく表現した伝説として、長く地元の人々に親しまれてきた。」
浜松出世祭りの際、久しぶりに小豆餅と銭取を買ってみました。
小豆餅は黒砂糖やもろこしが入った餅生地で北海道産の大粒小豆の餡を包み、きなこをまぶした大福
銭取は小判型の和風マドレーヌ
家康になった気分で食べてみました。
どちらも程よい甘さで、ついつい二つ目に手を伸ばしてしまいそうです
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いよいよ あの三方原の戦いが描かれますね。
小豆餅の方が有名ですね!
洋風のマドレーヌもお薦めです😊
いよいよあの信玄が攻めてきますね!