日本の大殉教と呼ばれるものは三つであり、1622年9月10日の長崎の殉教、1623年12月4日の江戸の殉教、そして京都の大殉教。
江戸幕府のキリシタン弾圧は、慶長17(1612)年に始まり、二回目の弾圧は,元和年間(1615~23)に始まり,元和5(1619)年、伏見城に上洛していた徳川秀忠は、伏見でキリシタン投獄者がいることを知ると、老若男女の区別なく、全ての信者を火あぶりで処刑するように命じたといいます。小川牢屋敷に投獄されていた信者たちは、52人が大八車に積み込まれ、見せしめのため、六条から七条まで引き回された後、27本の十字架に縛られました。夕暮れになると、六条河原で、十字架を囲む薪の輪に火が付けられ、悲惨な最期を遂げました。
その中で、最も人々の涙を誘ったのは、橋本太兵衛の妻テクラと子供たちで、3人の子供と一緒に縛られたテクラは、泣き叫ぶ子供たちを励ましながら、最後まで抱き締めていたといいます。
中山正美作「都の大殉教」より テクラ橋本(バチカン美術館蔵)
川端通りの正面橋のふもとに「元和キリシタン殉教の地」という石碑が建っています。
鞍馬石に「元和キリシタン殉教の地」と刻まれています。
1994年8月、平安遷都1200年の記念事業として、この碑が建てられました。
人は人に対してどうしてここまで残酷になれるのでしょう?
このような悲惨な出来事が過去にあったということを、後世まで語り継いでいかなければなりませんね。
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江戸幕府のキリシタン弾圧は、慶長17(1612)年に始まり、二回目の弾圧は,元和年間(1615~23)に始まり,元和5(1619)年、伏見城に上洛していた徳川秀忠は、伏見でキリシタン投獄者がいることを知ると、老若男女の区別なく、全ての信者を火あぶりで処刑するように命じたといいます。小川牢屋敷に投獄されていた信者たちは、52人が大八車に積み込まれ、見せしめのため、六条から七条まで引き回された後、27本の十字架に縛られました。夕暮れになると、六条河原で、十字架を囲む薪の輪に火が付けられ、悲惨な最期を遂げました。
その中で、最も人々の涙を誘ったのは、橋本太兵衛の妻テクラと子供たちで、3人の子供と一緒に縛られたテクラは、泣き叫ぶ子供たちを励ましながら、最後まで抱き締めていたといいます。
中山正美作「都の大殉教」より テクラ橋本(バチカン美術館蔵)
川端通りの正面橋のふもとに「元和キリシタン殉教の地」という石碑が建っています。
鞍馬石に「元和キリシタン殉教の地」と刻まれています。
1994年8月、平安遷都1200年の記念事業として、この碑が建てられました。
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>川端通りの正面橋のふもとに「元和キリシタン殉教の地」という石碑が建っています。
これは知らなかったし、見たことがありません。
よく細かく京都を見て歩いておららるのには感嘆しています。
ここは予め調べて行きました。
京都のキリシタン関連の地も気になるところです。