HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

色で継ぐ、色が繋ぐ。

2023-09-06 07:58:34 | Weblog
 被爆や終戦など戦争の1ページをよりリアルに、若者世代に訴えかける手法として、当時のモノクロ写真に色付ける活動が広がっている。デジタルの画像処理とAIを駆使すれば、簡単にカラー化できるため、人間は微調整するだけで済む。モノクロ写真のカラー化により、過去の暮らしや自然の風景など背景にある動きや熱量、出来事などの解読を可能にする。

 つまり、カラー化は情報発信にもなるのだ。人々の生活や文化、政治、宗教、心理や生理までを色鮮やかに蘇らせてくれるため、モノクロでは伝えきれていなかった情報が伝わりやすい。例えば、日本にカメラが伝来して直後、人々は写真に撮られると「魂が抜け出る」という迷信を信じ込んでいた。そうした写真をカラー化することで、被写体となった人々の表情から「ビビり感」がよりリアルに伝わってくる。その意味で、モノクロ写真のカラー化は、時代の時間軸を縮める力を持ち、歴史教育にも活用できる。




 それを可能にしたのがAIだ。現代のカラー写真とそのカラー写真をモノクロ化して、そのデータをコンピュータに取り込んでAIに学習させる。AIはモノクロ写真にどんな色をつければ、カラー写真らしくなるかというノウハウを導き出し、学習を重ねるごとに精度を向上させていく。すでにAIが考えるのは、「被写体の色を正確に再現する」ことから、「どうすれば自然に見えるか」を自ら考えて追求するレベルに進化している。

 自然な写真とは、光が差した木々の葉は明るい緑だが、光の陰になるとそれは深緑、さらに光が当たらないと黒に近くなる。AIは光の濃淡など画像を分けた箇所について細かく配色のバランスをとって色分けすることで、見る人間が自然な写真だと感じるように色をつけていく。多少は違った色合いになることもあり、人間が手を加えなければならないこともあるが、AIが学習機会を重ねることにより、それも少しずつ解消されていくと言われている。

 では、モノクロ写真のカラー化がどんな役割を果たすのか。業界で働いてきた人間として、写真はモノクロ、カラー、フィルムはポジ、ネガ、カメラも銀塩の35ミリ、4×5(シノゴ)、6×7(ロクナナ)などに触れてきた。それがデジタルへの移行により画像データ、データ容量に統一され、写真やフィルムの種別による差はほぼなくなった。単純に言えば、写真の大きさ、カラー、モノクロ、印刷やインターネットの種別で、データ容量や解像度が変わるだけになる。一般の人、特に若者にとってはそれさえほとんど関係なく、カラー写真は「リアルなこと」「今を表す媒体」に他ならないということに尽きると思う。

 つまり、モノクロ写真をカラーにすることは同じ時間、同じ時代にいるように感じさせるということだ。モノクロ写真が撮影されたのははるか前の時代なのだが、それがカラーになることによってごく身近な出来事のように錯覚させてしまう。見方を変えれば、歴史の中で凍りついていたいろんな情報が色づけされることで、解凍されオープンになっていく。被写体の人物がレンズの方に視線を集中していれば、何かを訴えかけていると感じることができる。その時代の息づかいまでが伝わってくるのだ。

 特にモノクロ写真は過去二度の世界的な戦争を伝えるものが多い。日本にとっては戦禍の中で何とか生き抜こうという人々の暮らしぶりから、戦況が悪化して空襲を耐え凌ぐ様子、そして原爆投下、敗戦、GHQ統治下、復興と辛く苦しい日々の中でも、明日はきっと良くなるという思いまでがアーカイブとなっている。モノクロ写真のままではそうした記憶を埋もれさせている面はあるだろう。それがカラー化によって、当時も今と変わらず日常があり、人の営みがあった現実、リアリティを呼び覚ましてくれるのだ。

 過去にもその時、その日の出来事がある。写真を撮った人も撮られた人やものにも、伝えたい思いやことがあるはずだ。色づけすることで、当時の流行や風俗などで、「あの時はこんなだったんだ」という新しい発見もある。ただ、AIを含めたデジタル技術の進化、インターネット、SNSの浸透で、プロと素人の境目がなくなりつつあるのも確かだ。商業カメラマンにとっては厳しい時代でもある。撮影から画像加工への転向で一縷の望みをかけることもできるが、どこまで生業となるかは未知数だ。この際、写真とは何かについて学び直しは必要ではないかとつくづく思うようになった。


無彩色というカラー処理もある



 もちろん、モノクロ写真にも特徴があるし、それなりの良さがある。モノクロとはもともとフランス語のモノクローム、「単色」を意味する。英語になると、そのままB&W、ブラック&ホワイト。モノクロの方が呼びやすいので、そのまま定着したと思う。その独特な魅力はカメラマンやアートディレクターなどを引き付け、アートそのものはもちろん、グラフィックデザインやファッションフォトで重要なポジションを占めてきた。

 当たり前のことだが、モノクロ写真には彩色がない。色は白、黒、グレーだ。デジタルで言うところの「色のモードを廃棄」=グレースケールである。つまり、実像から色を抜くことで、実像が持つ情報量を少なく、単純化する。 カラー写真であれば、色彩から熱量を感じ、それが喜怒哀楽となって伝わっていく。モノクロだと熱量が感じられず、灰色の冷たい世界を映し出す。

 一方で、モノクロ写真はカラーより陰影がはっきりするため、被写体の輪郭と立体感を描き出すことができる。その分、写真を見る人が被写体に集中できるので、無意識のうちにその人の心に影響を与え、深い思いを巡らせることもある。さらに詳しく言えば、モノクロ写真は何となく見るのではなく、しっかり見届ける行為にさせる。いわゆる、「凝視」ってやつだ。そして、見る人に被写体への興味を抱かせる。

 いつの時代でも人間が生で見ている出来事は、カラーである。それを人間は頭の中、脳みそが視覚的、論理的に捉えていく。それに対し、モノクロ写真を通した出来事は漠然とした抽象的なことから、脳が意識して捉えることで感情にインパクトを与え、いろんな意味合いを考えさせるようにする。人として理性的に考えさせ、自ら積極的に考えるようにさせるのだ。



 では、モノクロとカラーの中間的な写真は、どんな意味合いを持つのだろうか。両方の特徴を持ちながら、見る人に違った印象を与えるのではないか。写真の画像処理を利用したグラフィックアートの世界では、以前からこんなカラーでもない、モノクロでもない手法も取られていた。カラーのポジフィルムをわざとモノクロの印画紙に焼き付けるものだ。

 撮ったフィルムはカラーだから、ラボで現像したポジフィルムにはそのままカラーの画像が写っている。だが、焼きつける印画紙がモノクロ用だとカラー写真にはならない。「緑がかったセピア調」の写真になる。モノクロ写真のような冷たさはないが、被写体の輪郭と立体感はそのまま残っている。無彩色ながら色があるので、額装すればアートとしても楽しめる。

 1990年代、スタジオにモノクロの紙焼き設備をもつカメラマンの間では、そうした処理がトレンドだった。それを持ってない場合は、ラボ(現像所)にポジフィルムを持っていき、「モノクロの印画紙で焼いてください」と告げると、「セピア調ですね」と阿吽の呼吸で感じ取るスタッフもいた。それほど、写真やグラフィックの世界ではお馴染みの処理だった。

 現在はデジタルカメラの浸透でフィルムが無くなり、あえてでない限り紙焼きにしたり、カラー画像をセピア調にすることはない。だから、そんな処理を施したアーティスティックな写真は、ファッションのフォトなんかを除いてあんまり見かけないし、デザイン会社のスタッフはもちろん、代理店のディレクターなんて知る人は少なくなったのではないか。



 ただ、Photoshopを使えば、加工することができる。カラー写真のデータをPhotoshopに取り込み、イメージから色調補正を選び、色相・彩度の彩度データを-80以上に落として無彩色にする。見た目の写真はモノクロに近いが、画像モードはRGBまたはCMYKの状態だ。元画像にレイヤーを追加し、新規レイヤー上で新規塗りつぶしレイヤー、ベタ塗りを選択し、不透明度を15%くらいにして、C100%、Y100%のなど緑を重ね塗りすれば、セピア調に変換できる。元画像のモードはカラーを破棄していないので、単色を組み合わせるダブルトーンよりも、解像度は高く鮮明だ。

 各色のパーセンテージや彩度を調整すれば、緑系や黄系などどちらの色目にも振ることができる。デジタルとAIの力でモノクロ写真をカラー化できる一方、カラー写真をデジタルの力でセピア調にすることもできる。写真は撮る、ネットにアップするだけでなく、画像処理を加えてアートとして楽しむ。それが写真を歴史を継いで、新たな時代への繋いでいく。ただ、他人が撮影した写真を勝手に処理することは著作権に触れることもあるので、くれぐれもご注意を。あとは自由に色々楽しめば良いだろう。


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