あの日僕が、若林先輩の携帯を鳴らしたのは、午後9時を少し過ぎた頃だった。
「おい!長井!タラタラしてないでさっさと若林を呼び出せ!」
現場に着いて早々、古岸課長の、少しかすれ気味の大声が響き渡った。署内で一番携帯を使いこなしている僕(課長に言わせるとそうらしい)が現場に着いて最初にする仕事は、まだ到着していない同僚に携帯をかけることだった。僕から言わせてもらえば、今日はラッキーだった。時間が遅かったにも関わらず、みんな、先週起こった、中央区の女子高生殺しの聞き込みから帰ってきて、課長に報告していたおかげで、一番早く聞き込みから戻って帰宅してしまった若林先輩の携帯を鳴らすだけでよかったのだ。
うちの課には、岩のような固い意志のもと、携帯をいまだ持たずにいる人間が、4人いる。その4人が、4人ともそろって居るなんて、本当にラッキーだった。その1人でも欠けていようものなら、僕は、現場の仕事(本来の仕事)を、少なくても30分は手がつけられなかったはずだ。だって、携帯を持たないその4人は、同時に、課で、車を持たない4人なのだから(しかもその1人は古岸課長だ)。そしてその4人が1人でも欠けていた場合、僕の、現場に着いてから二番目にする仕事は、“その人を迎えにいくこと”になるはずだったのだ。
重ねて言うけれど、確かにこの日は、僕にとってはラッキーな日だった。しかしそれは、これから起こるであろう、大きな出来事(しかもアンラッキーな)の始まりにすぎなかったのだ。
30分を少し過ぎた頃、野次馬でごった返しているロープの外側で、若林先輩が、タクシーを降りるのが見えた。
「よう、遅かったな。デートか?」
という園田さんの横をすり抜け、課長の怒号をかわして、先輩は、コンビを組んでいる僕に、よっ、と声を掛けた。
「悪ぃな、遅くなって。」
「先輩、今日は車じゃないんですか、珍しいですね。」
「あぁ、その上、タクシーが捕まんなくてな。」
「えっ、家に帰ってたんじゃないんですか?」
「…なんで?」
「だって、先輩の家からここまでは、せいぜい15分くらいだし、10分もタクシーが捕まらないなんてこと、ないじゃないですか。」
先輩のすんでいるアパートから5分ほど歩くと、大通りに出る。道路の反対側に行けば、今日みたいな週末は、すすきの方面に行くタクシーが何台も通っていたはずだ。
「やっぱり、デートだ!」
先輩はそれに答えるよりも先に、人差し指を口元に当て、シーッと“声が大きいぞ”という合図をしたが、遅かった。
「おまえら!無駄口たたいてないでさっさと行って来い!!」
課長のカミナリが轟いた。
「ガイシャの身元はわかってんのか?」
さっきまで園田さんを乗せていた僕の助手席のシートベルトを着けながら、若林先輩が言った。
「あいつですよ、あいつ。」
「あいつ?」
「木下伸男ですよ。」
「木下って、先週の事件のか?」
「ええ、うちの課の人間全員で顔を確かめたんだから、間違いないですよ。」
「死因は?」
「誰かに腹をナイフで数回刺されて。失血死です。凶器のナイフは、死体のすぐそばに落ちてました。」
「喧嘩か?」
「まだそこまでは断言できませんけど、先輩が到着したら、一緒に木下のアパートの部屋、見て来い、って。」
ふうん、と言ったっきり、先輩は黙ってポケットからタバコを取り出して、ライターで火を点けた。
(つづく)
「おい!長井!タラタラしてないでさっさと若林を呼び出せ!」
現場に着いて早々、古岸課長の、少しかすれ気味の大声が響き渡った。署内で一番携帯を使いこなしている僕(課長に言わせるとそうらしい)が現場に着いて最初にする仕事は、まだ到着していない同僚に携帯をかけることだった。僕から言わせてもらえば、今日はラッキーだった。時間が遅かったにも関わらず、みんな、先週起こった、中央区の女子高生殺しの聞き込みから帰ってきて、課長に報告していたおかげで、一番早く聞き込みから戻って帰宅してしまった若林先輩の携帯を鳴らすだけでよかったのだ。
うちの課には、岩のような固い意志のもと、携帯をいまだ持たずにいる人間が、4人いる。その4人が、4人ともそろって居るなんて、本当にラッキーだった。その1人でも欠けていようものなら、僕は、現場の仕事(本来の仕事)を、少なくても30分は手がつけられなかったはずだ。だって、携帯を持たないその4人は、同時に、課で、車を持たない4人なのだから(しかもその1人は古岸課長だ)。そしてその4人が1人でも欠けていた場合、僕の、現場に着いてから二番目にする仕事は、“その人を迎えにいくこと”になるはずだったのだ。
重ねて言うけれど、確かにこの日は、僕にとってはラッキーな日だった。しかしそれは、これから起こるであろう、大きな出来事(しかもアンラッキーな)の始まりにすぎなかったのだ。
30分を少し過ぎた頃、野次馬でごった返しているロープの外側で、若林先輩が、タクシーを降りるのが見えた。
「よう、遅かったな。デートか?」
という園田さんの横をすり抜け、課長の怒号をかわして、先輩は、コンビを組んでいる僕に、よっ、と声を掛けた。
「悪ぃな、遅くなって。」
「先輩、今日は車じゃないんですか、珍しいですね。」
「あぁ、その上、タクシーが捕まんなくてな。」
「えっ、家に帰ってたんじゃないんですか?」
「…なんで?」
「だって、先輩の家からここまでは、せいぜい15分くらいだし、10分もタクシーが捕まらないなんてこと、ないじゃないですか。」
先輩のすんでいるアパートから5分ほど歩くと、大通りに出る。道路の反対側に行けば、今日みたいな週末は、すすきの方面に行くタクシーが何台も通っていたはずだ。
「やっぱり、デートだ!」
先輩はそれに答えるよりも先に、人差し指を口元に当て、シーッと“声が大きいぞ”という合図をしたが、遅かった。
「おまえら!無駄口たたいてないでさっさと行って来い!!」
課長のカミナリが轟いた。
「ガイシャの身元はわかってんのか?」
さっきまで園田さんを乗せていた僕の助手席のシートベルトを着けながら、若林先輩が言った。
「あいつですよ、あいつ。」
「あいつ?」
「木下伸男ですよ。」
「木下って、先週の事件のか?」
「ええ、うちの課の人間全員で顔を確かめたんだから、間違いないですよ。」
「死因は?」
「誰かに腹をナイフで数回刺されて。失血死です。凶器のナイフは、死体のすぐそばに落ちてました。」
「喧嘩か?」
「まだそこまでは断言できませんけど、先輩が到着したら、一緒に木下のアパートの部屋、見て来い、って。」
ふうん、と言ったっきり、先輩は黙ってポケットからタバコを取り出して、ライターで火を点けた。
(つづく)