江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

江古田原沼袋の戦い

2012年09月18日 19時58分28秒 | Weblog
今日も暑いね。昨日授業で集中すると結構くたびれるので、今日は気分転換した。

JR中野駅から歩いて、江古田原・沼袋の戦いの場を見に行きました。





「亨徳の乱」といわれる室町時代の鎌倉公方・足利成氏がその部下である関東管領上杉憲忠を謀殺したところから、1455年上杉関東管領一族が鎌倉公方足利成氏に全面戦争を挑み、以後30年もの関東での大乱となった。

この間、鎌倉を追われた 足利成氏は古河公方として現在の江戸川の東を支配する地方政権となる。
これに対抗した上杉関東管領は、江戸川の西に、江戸城・岩槻城・川越城という防衛ラインを引き、最前線は五十子陣という戦線基地であった。

こういう中で、上杉管領家の代官の地位を奪われた長尾影春が上杉家に反乱したのが「上杉影春の乱」で、一時、上杉一族を駆逐する勢いを示したが、扇谷上杉家の代官太田道灌が、上杉影春を鎮圧にあたる。

上杉影春に味方したのが、豊島一族で、彼らは律令時代の豊島郡にあたる地域の数百年の支配者であり、
太田道灌の江戸・岩槻・川越の足利包囲網を、練馬城・石神井城で中断する形となった。

ここから、太田道灌側が、豊島氏と全面戦争。双方約1000騎づつのが勢力で江古田原・沼袋で戦う。

結果は、太田道灌側が勝利。豊島氏がわは150人の死者を出して、武蔵の国は豊島氏から太田氏支配に移動することとなった戦争である。

その後、1486年、太田道灌も主君に謀殺されたことから、以後、同じ上杉一族で、よ山内上杉グループと、扇谷上杉グループが「長亨の乱」といわれる18年もの内乱に進む。

 この間、10年の応仁の乱を終えた京都幕府や、足利一門の有力者たち、さらに全国の守護・守護代が下剋上の戦国時代に進んでいくが、関東では後北条氏が勢力を伸ばしていくことになる。