江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

石垣山一夜城

2012年09月27日 17時36分51秒 | 歴史を旅する
秀吉全国制覇の仕上げ=小田原北条氏滅亡    小田急入生田駅から徒歩50分、JR早川駅から同40分

 豊臣秀吉は1584年(天正13)関白に任官。
翌年85年四国攻め、翌々年86年九州攻めで、西国をほぼ平定した。

ここで秀吉は、「関東、奥両国惣無事令」を出し、関東と陸奥・出羽の両国において、以後大名同士の領土の取り合いがあれば、関白として征伐すると命じた。

 1588年、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を招き、ここに全国の諸大名の列席を命じた。
このとき、小田原の北条氏政・氏直親子は出席しなかったところから、北条氏との対立は決定的になった。

 こういう状況下、1589年(天正17年)10月、上野国(群馬県)沼田城の城代猪俣氏が近くの胡桃城を奪ったことから、秀吉はこれを「関東、奥両国惣無事令」違反とし、11月北条氏に宣戦布告状を発する。

 北条側は早くからこの日のあることを想定しており、小田原城の城下町全部を「惣構え」という防御濠を作り、その他の支城を修築するなどするとともに、北条氏側は5万4千人を動員していた。

 しかし秀吉は、15万とも21万人ともいわれる大軍を動員、北条方を圧倒するその大軍で小田原城を包囲する前線司令基地として、石垣山に、一夜で城を築いたものである。

 一夜城は、小田原城から3km、本丸は小田原城より227m高い、つまり物理的にも小田原を圧倒する城で、これはかって秀吉が柴田勝家の北の庄城を囲んで、切腹落城に陥れたのと全く同じスタイル。

 この城は天正18年4月から同6月下旬までの80日間で、4万人を動員して構築したもので、「一夜城」ではあり得ない。むしろ小田原城からもこの建造の動きは十分見えていたはずで、これは籠城側に相当な圧力を与えていたと思われる。

 つまり秀吉からすれば、石垣山一夜城は、対小田原、対世間にデモンストレーションするための城であり威容を示す手段で、秀吉は一夜城に約100日間滞在しているが、、この間に、天皇の勅使を招き、千利休、能役者、猿楽師などを招請し、さらに淀君や側室とともに、各大名の奥方たちもこの一夜城に呼び寄せ慰問している。これは全く余裕の戦いである。

 一夜城は、近江坂本の穴太衆といわれる当時最新の石工集団が野面積の技法を初めて関東に実用した城で、だから石垣山といわれる。もとは笠懸山と言われたが、当時この石積みの技法が、東国では相当強烈に技術の格差を感じさせた名前であろう。(この石積み技法は江戸時代の大地震にも耐え、現在も多くが残っている)

いずれにせよ北条氏5代が関東での覇権争いをしている間に、応仁の乱を号砲スタートとする下剋上・戦国時代のなかで、京の周辺から関西や西国での政争軍事衝突・全国支配の激しい時代をへて、今や最終局面に達しており、関東というローカルの地での上杉・北条・足利の覇権争いは完全に時代遅れになっていたということか。

 秀吉の一夜城滞在100日の内に、いわゆる「小田原評定」があり、小田原方は、現代日本人と同じように、結論が出せない政治があり、ずるずるしているうちに結局小田原城開城の上、北条家当主北条氏直は高野山に送られ切腹。

ここに北条氏5代が滅亡し、秀吉の全国制覇が完了する。

いろいろ考えさせられるネ。

 


コメント
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