江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

歴史を旅する・・北九州 その5

2013年08月04日 19時39分43秒 | Weblog
1274年 文永の役  元軍、対馬・壱岐を侵し、ついで肥前・筑前に上陸。一夜暴風雨で敵船沈没、逃走。

1281年 弘安の役  元軍10万高麗軍とともに来襲。筑前・長門を侵す。大風おこり敵船ことごとく沈没。







これが今津浜にある第2次元寇防衛の防塁跡。
長い年月のあと、松林の中に埋もれている。博多市内にほんの少し残っているとか。




博多が当然攻略目標であるが、戦略的には東松浦半島の西にある鷹島という松浦水軍の基地がある島が、第1次元寇も、第2次元寇も最初に狙われ、元軍艦隊襲結の地となった。理由は松浦水軍を叩かないと制海権を確保できないからと、中国沿岸等が倭寇に侵攻されていたからその恨みから倭寇の本拠地を特に狙ったとか。

そして、1次・2次軍ともこの水域で多量に終結し、多量に沈没することとなった。

元軍の最高司令官の印


元の沈没船の碇


元寇の理由の可能性


この鷹島の沖で、数万の元・高句麗軍船・兵が沈んだ。そこを、いま琉球大学を中心に水中考古学といって、水中で過去の軍船を引き上げようとしている。


鷹島の役場にある、元寇記念碑


吾輩は唐津の虹の松原のホテルから車で行ったが、鷹島は長崎県松浦市の所管で、最近は橋ができたから東松浦半島から簡単に行けるが、昔は松浦から船で行くしかなかったみたい。

でもこれほどの潜在的観光資源を世に知らせないのはもったいないねと、役場職員らしき博物館の責任者に言っておいたよ。




歴史を旅する・・北九州 その4

2013年08月04日 06時52分30秒 | Weblog
邪馬台国九州説の擬するひとつが吉野ヶ里。




ここに卑弥呼がいた、というのが魏志倭人伝の一番素直な理解だろう。
この場合、南の句奴国が、岩戸山古墳の八女古墳群の地域で、





卑弥呼の登場と死亡は倭国大乱の前後に句奴国に敗れたためとも考えうる。

その句奴国の約250年の末裔が磐井の乱の主体筑紫の国造磐井の君である。
このころは大和朝廷の勢力が拡大し、この反乱で九州も完全に支配下に置かれた歴史の転換点とも考えられる。

一方、おなじく邪馬台国九州説でも伊都国とする方がより合理的と思える。何しろクニとしての発展段階と位置、遺跡の内容が極めて有利。律令国家の時代も継続している。
 この場合、ヤマトの纏向の地へ、東征したのか?ここが根本問題。





ちなみに
 伊都国・・・・前原
 奴国・・・・・博多
 末廬国・・・・唐津
 壱支国・・・・壱岐の島郷ノ浦
 句奴国・・・・熊本、菊池郡、球磨郡か
 邪馬台国   ???????

歴史を旅する・・北九州 その3

2013年08月04日 00時05分01秒 | Weblog
1、倭国大乱(魏志倭人伝のいう)と邪馬台国九州か近畿か。その背景の根幹は、
①緊迫した国際情勢に対応した混乱
②北九州勢力が東方への進出圧力の摩擦
③鉄資源争奪戦争
2、①説:30ケ国近い西日本のクニグニが連合の首長として卑弥呼を女王にし、その結果、騒乱が収まった。
この政治連合がヤマト王権で倭国。この特徴は前方後円墳を持つ。卑弥呼の死とともに、ヤマト政権に拡大。
ここでは、複数の有力集団から交代で王権につくという形。
卑弥呼に対立していた東方の狗奴国とは、濃尾平野にあったクニであろうが、卑弥呼の死の後、ヤマト王権の倭国連合に服属。
 前方後円墳とその埋葬方法は、吉備の国・阿波のクニのそれに近い。吉備の国がヤマト王権のリーダーシップをとったのでないか。
なぜなら、西日本のクニグニは、ヤマト王権を作らざるを得なかった。当時、大陸では黄巾の乱・北方民族の侵略で後漢が急速に衰退。その結果、倭国の大陸文化受容の窓口であり、近隣諸国から頭一つ抜きんでていた伊都国が失墜。大陸交易の均衡が崩れ、倭国は大混乱に陥った。(これは鉄の争奪の結果でない。なぜなら北九州は鉄器の出土が圧倒的に多い。)
 後漢の衰退に乗じて、南満州の公孫氏が朝鮮に侵攻、東アジアの政治地図、朝鮮半島の権益が激変。ヤマトのクニグニは団結の必要があった。(古代の明治維新説)

 ヤマト王権とは邪馬台国盟主の王権とは全く別の人工的新政権である。
弥生式集落を一切有しない纏向遺跡が突如前方後円墳の根拠地となったのは、西日本のクニグニによって、倭国の王権の都市として建設された新しい都市で、運河を作り短期間で近畿・吉備・山陰・東海から人々が終結したもの。
 ちなみに、卑弥呼はたまたま纏向にいた「邪馬台=ヤマト」といわれる地にいた妖術を使う女で、ある日突然、倭国女王に祭り上げられた。彼女は倭国女王であるが、その都は邪馬台にあるだけで、それも通常のクニかどうかも疑わしい。親魏倭王・倭の女王であるが、邪馬台国の女王とは記していない。
②説
 伊都国を中心とする倭国が北部九州で形成され、それが2世紀末に奈良の纏向遺跡の地に移って邪馬台国となった。(邪馬台国東遷説)
吉野ヶ里遺跡の規模の集落は九州ではいくつもあり、ただ発掘されていないだけ。決め手は中国製の銅鏡のあるなしで吉野ヶ里にはそれがないが伊都国跡にはそれが大量にかつ極めて大きいのがある。
3世紀に出現した前方後円墳は、①形状、②竪穴式石槨(石の囲い)、③割り竹形木棺、④副葬の銅鏡の特徴があり、①②は吉備、東瀬戸内の特徴③④は伊都国の特徴。
 卑弥呼の130年前、107年後漢書に記載の倭の国王帥升とは、伊都国の王で、紀元前1世紀から王家のあった伊都国はたびたび東方進出を図っていた。
伊都国中心の北部九州は倭国の大乱にも勝利した。なぜなら圧倒的に鉄器の出土が多い。
伊都国最後の女王が死にその権威は纏向の卑弥呼に引き継がれた。破砕鏡の儀礼も引き継がれた。
 伊都国も奴国も弥生時代前期から古墳時代まで継続して栄えているが、近畿では唐古・鍵遺跡も、池上曽根遺跡も弥生時代で終焉しているが、これはおかしい。