江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

武雄温泉

2013年08月10日 12時12分11秒 | Weblog


楼門と武雄温泉新館は,東京駅や日銀設計のあの辰野金吾(佐賀県出身)の設計になるもので、国の重要文化財とか。(この楼門は現在修理中で、足場で覆われており、写真のような雄姿は見られなかったが…)

共同浴場であるが、鍋島氏専用の浴場であった施設も存在し殿様湯とか。


開湯は約1200年前である。伝説によると神功皇后が凱旋の途、太刀の柄(つか)で一突きしたところ、湯が湧き出たと言われ昔は柄崎温泉と呼ばれていた。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に、負傷兵士の湯治場として利用したといわれる。


 アルカリ性の軽いさらさらしたいい湯だった。ただ忙しかったので「カラスの行水」みたいで残念であったが。

 江戸時代は長崎街道の宿場町柄崎としても栄え、幕末には長崎を往来した勤皇志士や文人らが盛んにこの湯を訪れたという。
佐賀藩城主の鍋島氏、江戸時代初期には伊達政宗、宮本武蔵が、また幕末にはシーボルト、吉田松陰らが入湯したといわれる。
 今でもシーボルトの湯といわれるそうな。


長崎街道は、小倉から223km23宿長崎までの街道。幕末の文明・人物・文物がが行き来し当時の貴重品砂糖を送ったところから、シュガー街道といわれ、沿道には砂糖を使った饅頭とかの店が多いとか。

東海道や中山道と同様、車で走破を考えたが、小倉から鳥栖や佐賀まで市街化が進み昔の趣は全然ないから吾輩はあきらめた。しかしいつかは長崎の手前の矢上宿など幕末の気分を味わいたいと思っている。