江戸の退屈御家人

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歴史を旅する・・北九州 その6

2013年08月06日 12時01分19秒 | Weblog
1592年 文禄の役  豊臣秀吉 諸将をして朝鮮に出兵せしむ。
1597年 慶長の役  秀吉 再び朝鮮に出兵せしむ。
    翌慶長3年3月、醍醐の花見、8月秀吉死亡。外征の諸将を召還。













暑い中、名護屋城跡に登り、城跡を1周。
名護屋城は秀吉の命で黒田官兵衛など九州の諸大名が1年半で築城したもので、大阪城に次ぐ大きさ。その昔、神功皇后(実際は存在せず)がこの地「呼子の浜」から朝鮮出征した故地で、出征するのに最適の地であろう。
 色々の記録では多くの大名が近くに配置している地図を不思議に思っていたが、現地に行くとすぐ分かった。ここは、名護屋城の城下町なのである。各武将は、安土城における信長の大名屋敷跡と同じく、天下人秀吉の家来がみんなこの城下に住んでいたという訳である。わずか2年ほどの内に、何もない地に、人口十万人の大都市が誕生したのだ。
 実際朝鮮に渡った実戦部隊の兵士数十万人がどこにいたかは不明だが。

 名護屋城本丸跡からは、天然の良港 呼子 を一望、さらに壱岐の島まで見える。

ここに句碑があった。「太閤が 睨みし海の 霞かな」と大正のころの何とか言う人の句だが・・・

名護屋城は、秀吉の死後廃城となり、徳川の時代になって1国1城令と島原の乱の懸念から石垣なども一部取り壊された。1608年名護屋城の用材は唐津城に転用された。



唐津城主は秀吉の腹心寺沢広高で、1595年から唐津城主に報じられている。
 なお、寺沢広高は、1592年、秀吉のバテレン追放令で直轄地となった長崎の最初の奉行を命じられているから、秀吉の優秀な官僚であろう。
 
しかし、その後徳川の時代になると、唐津城主は改易され、以後多くの大名が交替して城主となる。

 小さいが大阪城並みに美しい城だ。右後ろには、寺沢広高が植林したという 虹の松原があり、現在は特別名勝となっている。