1、第1次蒙古来襲=1274年文永の役は、元の強襲偵察のような感じがする。初めての異敵に「やあやあ我こそは・・・」という歌舞伎みたいな対応で、相当の被害を出したが。勇猛果敢な攻撃で元軍の司令官一人が討ち死にしたことや、台風で多くが水死したこともあって、引き上げた。
2、翌1275年、建治元年4月、元の国史・杜世忠ら5人が国書をもって降伏勧告。
これに対し、国内で色々の政治対応があったのち、執権北条時宗は国史5人を滝の口の刑場で処刑。この5人は常立寺で埋葬され5輪の塔がたてられた。
その後、1281年弘安4年、第2次元寇。第1次元寇の教訓から、元寇の防塁が大いに役に立ったみたい。日本のゲリラ戦法や日本の土地を利用した戦法や夜襲は、元軍を悩ませ、上陸守備地を築くことができず、夜は船に帰らざるをえなかったところへ、神風が吹いたということである。あの鷹島沖で数万の兵が海の藻屑に果てたのだ。
3、大正14年に顕彰碑が建てられた。
平成17年以来、モンゴル出身の朝青竜や白鵬ら幕内力士が訪問。モンゴルの英雄の青マフラーを5輪の塔にかけて供養した。平成20年にはモンゴル大統領も訪問した。
4、常立寺は鎌倉幕府の滝の口刑場での処刑者埋葬のための寺であった。
5、日蓮も、このころ、異国の侵攻の恐れとその対応を説いていたところ、風説流布の罪で、ここで処刑されるところであったが、僧侶には死罪がない、幕府の評定衆の判決がないまま、斬首実行されそうになっていたが、幕府から中止命令が追いかけていたとか。
突然雷が鳴ったとか、いろいろあるが、結局日蓮は佐渡へ遠島されている。
6、その後、日蓮の法難の地、滝の口刑場跡に、弟子により滝口寺がたてられ、紆余曲折があって、今日に至っているとか。きれいな心落ち着くお寺だ。
2、翌1275年、建治元年4月、元の国史・杜世忠ら5人が国書をもって降伏勧告。
これに対し、国内で色々の政治対応があったのち、執権北条時宗は国史5人を滝の口の刑場で処刑。この5人は常立寺で埋葬され5輪の塔がたてられた。
その後、1281年弘安4年、第2次元寇。第1次元寇の教訓から、元寇の防塁が大いに役に立ったみたい。日本のゲリラ戦法や日本の土地を利用した戦法や夜襲は、元軍を悩ませ、上陸守備地を築くことができず、夜は船に帰らざるをえなかったところへ、神風が吹いたということである。あの鷹島沖で数万の兵が海の藻屑に果てたのだ。
3、大正14年に顕彰碑が建てられた。
平成17年以来、モンゴル出身の朝青竜や白鵬ら幕内力士が訪問。モンゴルの英雄の青マフラーを5輪の塔にかけて供養した。平成20年にはモンゴル大統領も訪問した。
4、常立寺は鎌倉幕府の滝の口刑場での処刑者埋葬のための寺であった。
5、日蓮も、このころ、異国の侵攻の恐れとその対応を説いていたところ、風説流布の罪で、ここで処刑されるところであったが、僧侶には死罪がない、幕府の評定衆の判決がないまま、斬首実行されそうになっていたが、幕府から中止命令が追いかけていたとか。
突然雷が鳴ったとか、いろいろあるが、結局日蓮は佐渡へ遠島されている。
6、その後、日蓮の法難の地、滝の口刑場跡に、弟子により滝口寺がたてられ、紆余曲折があって、今日に至っているとか。きれいな心落ち着くお寺だ。