狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

朝日新聞の北への配慮

2006-07-01 13:29:56 | 県知事選
 
 
北朝鮮拉致被害者・金英男さん記者会見、一問一答

【金剛山29日聯合】北朝鮮拉致被害者の 金英男(キム・ヨンナム)さんは、南北離散家族面会行事2日目を迎えた29日、金剛山ホテルで記者会見を開いた。
 
 以下は一問一答の中北朝鮮へ行った経緯。
 
 ―どのようにして北朝鮮に渡ったのか。
 
 「1978年8月5日、夏休みを利用して友人らと仙遊島海水浴場に遊びに行った。先輩2人が女性に貸した録音機を返してもらってくるよう言い、暴力をはたらいた。言う通りにしなければさらに殴られるかと思い、一時身を隠そうと海辺の小さい船に隠れた。少し漕ぎ出して安心し横になっているうちに眠ってしまった。目を開けると島も海水浴場の灯りも見えなかった。死ぬのかと思ったが、遠くないところに1隻の船が通ったので助けを求めた。船にいた人々に状況を説明したところ、島に戻るのは難しいので一緒に行こうといわれた。後になって北朝鮮の船だと分かり、南浦港に着いた。北朝鮮だと聞いて、怖くて心配になった」

 ―その後どうしたのか。
 
 「最初の数日は眠れず食欲もなかった。徐々に北朝鮮の人たちの親切さに触れ、心も落ち着いた。あちこち見て回るうちに北朝鮮に対する認識が変わり始めた。韓国に戻っても生活は苦しく、悩んだ末にここで少し勉強をしてから戻ればいいと思い、歳月が流れ28年が経った」 。
 
                  ◇
 
◆大田前沖縄県知事の北朝鮮礼賛
 
金英男さんが言いたいのは北朝鮮の脅威が宣伝されているが、百聞は一見にしかずで、日米政府が強調するほどの脅威は感じない。育児や教育に心血を注ぎ、女性やお年寄りや働く人に対し、手厚い保護がなされていた。近い将来素晴らしい国になると実感した」、・・・ということ、
言葉を変えれば北朝鮮は「地上の楽園」だったので「鯛やヒラメの舞踊り」を見ていたら、あっという間に28年経ってしまった、と言う事。
 
あまりの北朝鮮の素晴らしさに親兄弟がいる事さえもすっかり忘れてしまったと言うこと。
 
夢のような時の流れに浦島太郎は白髪の御爺さんになってしまうが、金英男さんは白髪にはならずに・・・・。
 
北朝鮮に行った人は金英男さんのように拉致された人でなくとも必ず乙姫様ならぬ将軍様にタマ、・・じゃなく、魂を抜かれててしまうのはどうした事なのか。
 
上記の「赤字部分」は大田・前沖縄県知事が2000年5月に「朝鮮ー沖縄平和友好団」の団長として北朝鮮に行き、帰国後琉球新報に、語った言葉をそのまま引用した。
 
全く同文だが敢えて引用すると大田前知事はこのように語っている。
 
 「北朝鮮の脅威が宣伝されているが、百聞は一見にしかずで、日米政府が強調するほどの脅威は感じない。育児や教育に心血を注ぎ、女性やお年寄りや働く人に対し、手厚い保護がなされていた。近い将来素晴らしい国になると実感した」。(2000年5月琉球新報)
 
 ブッシュ大統領にとっては「悪の枢軸国」でも大田昌秀にとっては「地上の楽園」にしか見えないのであろう。
 
                   ◇

朝日新聞の北への配慮

【社説】朝日新聞 2006年06月30日(金曜日)付

金英男さん つくられた会見の悲しさ

 韓国から北朝鮮に連れ去られた金英男さん(44)が、28年ぶりに母親(79)と対面した。抱き合い、涙にくれる年老いた母。生きて再び互いの肌のぬくもりを確かめ合った母子の、感激の映像が送られてきた。

 残念なのは、これが拉致という非道な犯罪に何の解決ももたらさないことだ。

 英男さんは、29年前に新潟から拉致された横田めぐみさんの夫だったとされる人だ。きのう、北朝鮮側が設定した記者会見でこれまでの経緯を語った。

 ――自分は拉致されたのではない。海水浴の際に海に流され、北の船に助けられて偶然に北へ来た。

 北朝鮮は韓国人拉致をいっさい認めていない。だからそう言わざるを得ないのだろう。北朝鮮の国内で、当局の監視のもとでの言葉だ。英男さんに自由な発言を期待することに無理がある。

 英男さんは2年前、平壌でキム・チョルジュンの名で日本政府の代表団と会った人物に間違いないようだ。彼は「めぐみの遺骨だ」と言って骨つぼを渡した。

 しかし、日本政府はDNA鑑定で遺骨は偽物という結論を出した。

 「めぐみは病状が回復せず、結局、自殺することになった」。英男さんは会見で北朝鮮の従来の主張そのままに語り、日本の対応を厳しく批判した。

 ただ新たな根拠を示したわけではない。それを信じろと言われても、説得力に欠けよう。まして生存を信じる横田さんの両親には通用すまい。

 日本人拉致を認めた北朝鮮は、もっと誠実に説明責任を果たす義務がある。めぐみさんのことに限らない。ほかの被害者についても、まともに説明しようとしない不誠実な姿勢が、日本国内に強い不信感と怒りを増幅させている。

 これでは国交正常化といっても、世論に受け入れられない。英男さんを訪日させ、被害者家族らの疑問を直接受け止めることも考えたらどうか。娘のヘギョンさん(18)も早く祖父母に会わせたい。

 それにしても、英男さんにとってもつらい人生だったに違いない。

 韓国政府は英男さんを拉致被害者と認定し、それを証言する北朝鮮の元工作員もいる。でも会見ではそれを自ら否定する。再婚して新しい家庭もできた。だからあまり多くは語れないのだ。

 同じ民族が殺し合った朝鮮戦争などで生き別れになった離散家族は、南北に1千万人と言われる。離別の悲劇は拉致だけではない。それが、拉致犯罪に対する日韓の思いに微妙なずれを生じさせる。

 犯罪を謝罪させ、犯人を処罰し、被害者を帰国させる。日本では当然の要求であっても、韓国ではどうしても現実味に欠けると映るのだろう。正義はともかく、生きているうちに再会させることを最優先にせざるを得ない。そんな苦しい事情があることも受け止めたい。

 拉致という国家犯罪が人々にもたらすさまざまな過酷な試練。それを思うと、改めて怒りがこみ上げてくる。

 

朝日新聞はかつて、横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたという産経新聞の報道に対し、旧社会党などと共闘して、「産経新聞と公安のでっち上げだ」という主張を繰り返した。

それまで朝日新聞は、北朝鮮を「地上の楽園」と言い、医療費や教育費のすべてが無料、皆が裕福で泥棒などひとりもいないと真剣に主張していた。(前出大田前沖縄県知事の北朝鮮帰朝報告と類似)

理想的国家を北朝鮮としていただけに、そのような国が犯罪を犯すことなど受け入れることができなかったのだろう。 

ところが、金正日が日本人拉致を認めたことで、朝日新聞は打ちのめされた。

しかし、金正日にタマを握られた朝日新聞は、裏切った北朝鮮を恨むことは無かった。

苦し紛れに、日朝国交正常化を日本の最大の使命だと主張し、社説で「拉致被害者家族は日朝国交正常化の障害」とまで言ってのけた。 

しかし、次々暴かれる北の暴挙と世論の動きには頑なな北朝鮮援護もやりズ楽なった。

朝日新聞のまともな読者から予想以上の反発があった。

今では仕方なく北朝鮮をたしなめるような論調に切り替わっている。


一応、北朝鮮に文句を付ける論調にはなったが、それでもまだ北朝鮮を擁護したい気持ちがそこかしこで垣間見れる。


昨日の社説がその例だ。 
29日の金英男さんの会見を受け、今朝の新聞各紙は社説でこのことに触れた。それを読み比べればよく分かる。 
【産経新聞】金英男さん会見 北の筋書き通りの演出だ (6/30)
【読売新聞】拉致被害者会見 当局の筋書きをなぞった発言だ (6/30)
【毎日新聞】金英男さん会見 北朝鮮の代弁に終始した (6/30)
【朝日新聞】金英男さん つくられた会見の悲しさ (6/30) 

産経新聞は経済制裁というカードがあると主張した。

読売や毎日も、他の記事の中で経済制裁に触れた。

朝日を除く、産経、読売、毎日は経済制裁やむなしという立場である。 

それに対し、朝日新聞は経済制裁には全く触れない。

そんなことをして、将軍様を刺激したくないというのが朝日新聞の言い分だろう。

刺激をせずにどうするか。朝日新聞は社説に書いた。 

英男さんを訪日させ、被害者家族らの疑問を直接受け止めることも考えたらどうか。」 

朝日新聞は将軍様が英男さんを訪日させてくれると本気で考えているのだろうか。

又仮に訪日を許したとしても英男さんが被疑者家族の疑問を直接受け止めるとでも本気で考えているのだろうか。

いや、偏差値の高い朝日の記者がそんなバカなことを本気で考えるはずは無い。

朝日新聞は将軍様に配慮して、実現不可能なことを書いてみせただけなのだ。

朝日新聞はいつまで北朝鮮の悪事に目をつむり、制裁を拒み続けるのか。

朝日新聞は北朝鮮の出先機関なのか。

朝日の「朝」は朝鮮の「朝」なのか。 

 

コメント

思い出の歌 (2) 「東京アンナと踊子」

2006-07-01 09:15:58 | 音楽

◆渡久地政信は歌手を売り出すのにも定評があった。

津村謙を「上海帰りのリル」で世に送り出し、春日八郎を「お富さん」でトップ歌手にに押し上げた渡久地政信は押しも押されぬ大作曲家になっていた。

写真から受ける渡久地の印象はは痩せぎすで眼光鋭く音楽家と言うより学者タイプでとっつき難い感がする。

にもかかわらず渡久地の元には全国から歌を聴いて欲しいと弟子志願の歌手の卵が色んな伝を頼って面会に来る。

そんな中に未だセーラー服姿の大津美子がいた。

「先生!歌を聞いてから、駄目なら駄目と言ってください。もし駄目なら私は歌をあきらめます!」大津美子の必死の訴え。

その数分後、渡久地は自分の耳を疑った。
渡久地の耳に響いたのはセーラー服のあどけない少女とは思えない情感豊かなアルトの声。

昭和29年、歌謡曲黄金時代。スター誕生の瞬間だ。 
 

◆東京アンナ 昭和30年 大津美子

藤間哲郎 作詞
渡久地政信 作曲★大津美子(1938- )
豊橋出身。作曲家渡久地政信の弟子。昭和30年、レコードデビュー。銀座のクラブで流行っていたマンボに曲想を得た「東京アンナ」が大ヒット。31年にはハープとチェロを用いて、従来の流行歌の枠を壊す事を狙った「ここに幸あり」がヒット。この歌は結婚式の定番曲となった。33年には「銀座の蝶」がヒットした。その後、日系人への慰問活動などでハワイ名誉市民に選ばれる。55年、クモ膜下出血に倒れ生死の境をさまようが、奇跡のカムバックを遂げた。(引用「誰か昭和を想わざる」)


◆高校時代、フランク永井の登場で「低音の魅力」と言う言葉が流行した。

フランク永井の歌が得意で学園祭では何時も人気者になる男もいた。

洋モノではポールアンカが人気で「ダイアナ」を英語の歌詞で覚えたりするものもいた。

学園祭になると舞台で身をよじってスタンドマイクにしがみ付き「ユーアーマイデスティニー」を歌っていたS君は今どうしているだろう。

フランク永井の他にも低音を売り物にした歌手には三船浩がいた。 
その頃はあまり馴染まなかったがカラオケ時代になって「男のブルース」や「夜霧の滑走路」は筆者の持ち歌の一つになった。

一方低音ではないが良く伸びる美声が自慢の友人がいた。

その頃流行った三浦洸一の「踊子」が得意で友人の集まりがあるとマイク無しを物ともせずに良く聴かされた。 

三浦洸一も美声が自慢でラジオでドイツ・リードを原語で歌うのを聴いた記憶がある。
歌は確か「シューベルトのセレナーデ」だった。


◆踊   子  昭和32年

作詩 喜志邦三  作曲 渡久地政信 唄 三浦洸一

★三浦洸一(1928- )
神奈川県三浦半島の寺に生れる。東洋音楽学校を卒業、昭和27年にビクターに入り、吉田正に師事。28年に「さすらいの恋唄」で歌手デビュー。ポスト竹山逸郎、波岡惣一郎を期待されていたという。同年の「落葉しぐれ」が大ヒット。30年には「弁天小僧」が、31年には川端康成の同名小説をモチーフにした「東京の人」が、32年には「踊子」がヒットした。また、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は当初、スポンサーのそごうが三浦を指名したが、作曲家の吉田正の意向で変更された経緯がある。58年には小森和子らと「笑っていいとも」への出演でも話題となった。本名は桑田利康。(引用は「誰か昭和を想わざる」)

(続く)

コメント (2)