狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

続・「パンドラ・・訴訟」、第5回公判報告

2012-01-26 07:13:41 | ★パンドラの箱訴訟

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1月24日の「パンドラの箱掲載拒否訴訟」第5回口頭弁論に提出した上原正稔氏の陳述書の続きです。

文中、強調部分は引用者が施した。

(集団自決とその後の背景について一九九五年六月二十三、二十四、二十五日の宮城晴美がタイムスで発表した「母の遺言-きり取られた自決命令」の全文をここに紹介しよう。この衝撃的なコラムは集団自決の謎を解く鍵をぼくに提供し、ぼくはこれを基に翌年、「沖縄戦ショウダウン」の長い注「渡嘉敷島で何が起きたのか」を発表した。だが、なぜか誰もその後この最重要記事に触れることはなかった。)

母の遺言

1995年6月22日(木)沖縄タイムス
母の遺言<上> きり取られた“自決命令” ──宮城晴美
証言の独り歩きに苦悩 手記の書き直し託される

 その年、母は座間味島の「集団自決者」の名簿を取り出し、一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した“武器”、遺体を収容したときの状況など、これから自分が話すことのすべて記録するよう、娘の私に指示してきた。座間味島の地図を広げ、「自決者」のマップをつくりながら、母は知りうる限りの情報を私に提供し、そして一冊のノートを託したのである。
元号は変わっても…
それから間もなく、元気よく一週間の旅行に出かけたものの、母は帰ってきてから体の不調を訴えるようになり、入院後、とうとう永遠に帰らぬ人となってしまった。一九九〇年(平成二年)十二月六日であった。
 母の死後、遺品を整理しているなかで、日記帳の中から一枚のメモ用紙を見つけた。前年の一月七日、つまり昭和天皇が亡くなったその日に書かれたものであった。
 「静かに更けて行く昭和の時代も、後三十分で終わりを告げようとしている。
 本当に激動の時代であった。たとえ元号が変わっても、戦争への思いは変わらないであろう。
 新元号『平成』、どんな時代になるのだろう。子や孫のために、平和な世の中になってほしい」
 戦後、座間味島の「集団自決」の語りべとして、戦前の皇民化教育と「集団自決」のかかわりを、戦争の聞き取り調整のため島を訪れた無数の人たちに説いてきた母。
 それだけに、私にも言い続けてきた「昭和=戦争=“集団自決”」という、戦前の天皇制をベースに繰り広げられた悲惨な戦争の図式を、母は「昭和」の時代の終わりとともに、何らかのかたちで、自身の“思い”として留めたかったのではないだろうか。
 “真実”を綴ったノート
 そして、私に託された一冊のノート。それは字数にして四百字詰め原稿用紙の約百枚におよぶもので、母の戦争体験を日を追って詳しく綴(つづ)ったものであった。母は「いずれ時機を見計らって発表しなさい。でも、これはあくまでも個人の体験なので、発表するときには誤解がないよう、必ず客観的な時代背景を加えるように」と言葉を添えて手渡したのである。
 ただ、母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。まず、六三(昭和三十八年)発行の『家の光』四月号に、体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の日」が掲載されたこと。それから五年後の六八年に発行された『悲劇の座間味島-沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。
 ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、
母にとっては“不本意”な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
 「“不本意”な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであった。
自責の念にかられる
 とくに、『悲劇の座間味島』に掲載された「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」と梅澤部隊長からの命令が出されたというくだりが、『沖縄県史10 沖縄戦記録』をはじめとして、多くの書籍や記録の中で使われるようになり、その部分だけが切り取られて独り歩きをしだしたことに母の苦悩があった。
 あげくは、その隊長命令説を覆そうと躍起になるあまり、曽野綾子氏に代表される「自決者」を崇高な犠牲的精神の持ち主としてまつりあげる人々が出てきたとなると、母の気持ちは穏やかであるはずがなかった。
 そしてもう一つの“不本意”な理由、それは、自分の証言で「梅澤部隊長」個人を戦後、社会的に葬ってしまったという自責の念であった。これが最も大きい理由であったかもしれない。

1995年6月23日(金)沖縄タイムス
母の遺言<中> きり取られた“自決命令” ──宮城晴美
「玉砕」は島民の申し出 援護法意識した「軍命」証言
 母は、どうして座間味島の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったのか、その真相について私に語りだしたのは、確か一九七七年(昭和五十二)だったと思う。戦没者の三十三回忌、いわゆる「ウワイスーコー」と呼ばれる死者のお祝いを意味した最後の法事があると私は聞き、「島の人は何を考えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。
 「援護法」とのはざまで
 話は一九五六年(昭和三十一)にさかのぼった。
 沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では一九五三年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから三年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。
 この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。それを村当局は、隊長の命令で「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。
 つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者だけ補償されるという論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。
 その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというのである。
 母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。
 それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。
 軍と運命を共に
 座間味島は一九〇一年(明治三十四)に沖縄ではじめてのカツオ漁業をスタートさせた島で、それが軌道に乗り出した明治末期から子どもたちをどんどん上級学校に送り出し、教育熱は県内でも旺盛な地域であった。それだけ、皇民化教育を受け入れる土壌が整えられていったといえるだろう。
 一九四四年(昭和十九)九月、この島に日本軍が駐屯するようになったころから、住民は兵隊たちと運命を共にすることになる。島は特攻艇(敵艦に体当たりするための爆弾を積んだ一人乗りのベニヤボート)の秘密基地と化し、漁のため小舟を出すにも軍の許可証を必要とした。
 日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊との交流は欠かせないものになっていた。その交流の中から「戦陣訓」を学び、そして在郷軍人(退役した地元出身の軍人)からは、中国戦線で日本軍が中国人を相手に行った残虐な仕打ちが伝えられ、敵につかまったときの惨めさが語られた。
 忠魂碑の前に
 一九四五年(昭和二十)三月二十五日、三日前から続いた空襲に変わって、島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包み込まれる。方々で火の手があがり、住民は壕の中に隠れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。
 そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」と伝令の声が届いたのである。
 伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している。有力者の一人から一緒に来るように言われ、意味もわからないまま、四人についていったのである。
 有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

1995年6月24日(土)沖縄タイムス
母の遺言<下> きり取られた“自決命令” ──宮城晴美
「集団自決」時の社会背景 戦争は「終戦」で終わらない
 島の有力者たちがやってきたものの、いつ上陸してくるか知れない米軍を相手に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返していったが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけていたのである。
 軍国主義の象徴
 伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へ導いたといってもいいだろう。
 海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は、紀元二六〇〇年(昭和十五年=神武天皇即位以来二千六百年にあたるという)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団を中心に一九四二年(昭和十七)に建立されたものである。
 この忠魂碑というのは、「天皇に忠節・忠義を尽くして戦死した者の忠君愛国の魂を慰め、その事跡を顕影する」(『沖縄大百科事典』)ものといわれ、靖国神社と密接なつながりをもち、日本軍国主義思想のシンボルといわれたものであった。
 太平洋戦争の開戦日(一九四一年十二月八日)を記念して毎月八日に行われた「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」の座間味島での儀式の場所であった。これは住民の戦意高揚をはかるのが目的で、儀式の内容は、宮城遥拝「君が代」「海ゆかば」斉唱、村の有力者や在郷軍人会による、戦勝にむけての訓話などであった。
 元隊長との再会
 この場所に集まれというのだから、住民としてはすぐさま「自決」と結び付けざるを得なかった。結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見た住民がパニックを起こして、家族同士の殺し合いが始まったのである。
 それは「生きて捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺される」という、皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。
 母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げた四人全員が「集団自決」で亡くなってしまったため、戦後、母が“証言台”に立たされたのもやむを得ないことであった。
 一九八〇年(昭和五十五)の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出て以来、彼の戦後の生活が惨憺(さんたん)たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分が生きているうちに、本当のことを伝えたいと思っていたからである。
 皇民化教育の本質
 その後の彼の行動については、あえてここでは触れないことにしよう。しかし、一つだけ言わせていただくとしたら、梅澤元隊長が戦後なお、軍人の体質のまま持ち続けている人であることに変わりはない、ということである。
 母は私がモノ書きとして生活するようになってからは、いつも思い出したように言いつづけたことがあった。「いまは事実を書かなくてもいい。でもウソは絶対に書いてはいけない」ということ。そしてもう一つは「『集団自決』を論ずるとき、だれが命令したか個人を特定することにこだわっていると、皇民化教育の本質が見えなくなってしまう。当時の社会背景をしっかりおさえなさい」と。
 母は「事実」を元隊長に話したことで島の人との間に軋轢(あつれき)が生じ、悩み苦しんだあげくとうとう他界してしまった。母の死を通して、戦争というのが決して「終戦」で終わるものではないことをつくづく思い知らされている。

「母の遺言」の冒頭に述べられた「集団自決者」名簿の一人ひとりの屋号、亡くなった場所、使用した武器、遺体を収容したときの状況、自決者のマップなどの重要情報はその後の晴美さんの相矛盾する二冊の本のどこにも発表されていない。宮城晴美さんは2000年に「母の遺したもの」を出版し、梅澤さんは集団自決を命じていない、と記したが、2008年には改訂版「母の遺したもの」を出版し、そこでは梅澤さんは集団自決を命じた、と記している。

 乙2号書について若干述べる。ぼくはこの私的文書を興味深く読ませてもらった。この中で前泊博盛君は「沖縄の教育」という連載について述べているが、これは「沖縄の学力」が正しい。彼の前任者の後をついで途中からこれを担当することになったものだが、現に自分が担当しているコラムのタイトルを間違うというのはちょっとヒドすぎる。さらに被告弁護側はこの文書をぼくと琉球新報との連載合意文書として扱っているが、ぼくがこの文書を見るのは乙2号書として提出されたからのことである。前泊君の私的文書にすぎない。しかも前泊君はぼくの連載を決定する権限は全くない。これは既に決まっていたことだ。ぼくは前回(四回目)の陳述書の中で余りにも自明のことで指摘しなかったが、被告第2準備書面の中で150回から170回で合意したように記しているが、全50回~70回程度(15週間)と記し、裁判所に提出する前に50と70に1という文字を手書きで慌てて加え、150回~170回にしたものだ。15週間はそのままだ。週5回で計算してみれば明らかだ。これは裁判を愚弄するものであり、私文書偽造であることを指摘しておく。さらにぼくはいつも「初出の資料を使っている」。「初出の資料だけを使っている」のではないことを指摘しておく。
 
 最後に、ぼくは昨年十月中旬、兵庫県加古川市を赤松秀一さんと共に訪ね、赤松嘉次さんのお墓参りをした。ぼくは心から赤松嘉次さんに謝罪し、ご冥福を祈った。それまで、ぼくには神も仏も遠い存在であったがなんだか、ほっとし、心が軽くなった。一方、徳永信一弁護士は昨年十二月下旬、梅澤裕さんの九十五歳の誕生日会を催し、その写真を送ってくれた。その記念写真は僕の宝物になったことを記して筆をおく。

☆ 上原氏の陳述書終了  ☆

上原さんが引用した宮城晴美氏の手記を見れば、宮城氏は、母初江さんが援護法の適用のため島の長老の圧力に負けて心ならずも梅澤隊長が自決命令を出したと証言したが、これを悔やんで真相をノートに記し、これを娘の晴美氏が『母の遺したもの』を出版し、「梅澤軍命説」を否定したということになっている。 だが大江健三郎・岩波書店を被告にした「集団自決訴訟」が2005年に提訴されるや、『母の遺したもの』を読んで軍命説を否定していた地元の学者が次々と「軍命説」に転向していった。

集団自決に関する「転向学者」は枚挙に暇がないほどだが、1人だけ例を挙げる。

 ■二転三転の集団自決の「定説」■

座間味島の集団自決は「隊長命令による」という「定説」は、集団自決の生き残り宮城初江氏によってもたらされた。

初江氏は、その後それが「援護金」のために強制されたウソの証言であったことを娘晴美氏に書残した。

娘晴美氏が母の遺言である『母の遺したもの』(2000年12月)を出版することにより「定説」は逆転し、「隊長命令はなかった」が新たな「定説」となった。

「集団自決訴訟」提訴の5年前のことである。

沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教授(当時)は、琉球新報に『母の遺した』の書評書いて「〔書評〕『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著」 「定説」とは違う真相語る (隊長命令はなかった)吉浜忍(2000年12月24日・琉球新報)として、研究者の立場から新しい「定説」を補強した。 

「書評」で吉浜教授が、争点の「隊長命令」では「命令は無かった」と、従来の「定説」とは違う真相を解説している。

琉球新報 2000年12月24日

『読書』 『母の遺したもの』 宮城晴美著
 
「定説」とは違う真相語る
 
座間味島は、沖縄戦の前哨戦であり、悲劇の始まりでもあった。 悲劇の象徴が「集団自決」であり、今日まで「悲劇の物語」として語られてきた。 そして、物語の核心部分の「隊長命令による集団自決」には著者の母親の証言が有力な根拠となった。
当事者によるものであっただけにこの証言は大きな影響を与え、様々な出版物に引用されたり、粉飾されたりして。やがて「定説」化していった。 「隊長命令による集団自決」を一つの争点にした家永教科書沖縄出張裁判も記憶に新しい。
「定説」は時には善意によってつくられることもある。 座間味島「集団自決」の「定説」には、沖縄戦で戦死や負傷した一般住民に対する「援護法」適用問題が絡んでいた。 「集団自決」においては「軍との雇用関係」、すなわち隊長命令があったとすれば「援護法」が適用され、遺族は救済される。
この根拠として母親の言質がとられた。 母親の戦後苦悩はここから始まる。 さらに関係者との板ばさみで苦悩は助長する。
そして母親は死を前に、娘への遺言として、「定説」とは違う真相を語った。 隊長命令はなかったと。
本書は、戦後世代の娘が母親と真剣に向かい合い。 苦悩を共有しつつある、かつ執念をもって真相を究明し、「定説」を覆した。 戦後世代の沖縄戦継承が問われている今日、戦後世代が沖縄戦を二次体験として、体験証言を検証し次世代へ継承するという著書の姿勢は今後の指針になるであろう。(略)(吉浜忍・沖縄県文化振興会史料編集室主幹)

更に新しい「定説」に、沖縄タイムスがお墨付きを与えることになる。

『母の遺したもの』が沖縄タイムス出版文化賞を受賞するという栄誉と共に学術的にも社会的にも「隊長命令はなかった」が確固たる新「定説」となった。

 〔沖縄タイムス 12月12日〕
第22回沖縄タイムス出版文化賞受賞作品が決まる

2001年12月12日・沖縄タイムス・朝刊
 正賞:『アンヤタサー』山里将人著
、『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著

■提訴後の変節■

座間味島の集団自決の「定説」がタイムス、新報によって認知されたわけだが、この「定説」は2005年の「集団自決訴訟」によって、再び揺らぎ「隊長命令はあった」と元の「定説」に逆戻りする。

それに従って研究者達の「定説」も次々と姿を変えてくる。

例えば沖縄タイムスの「書評」で『母の遺したもの』は「『定説』とは違う真相を語るー隊長命令はなかった」と書いた吉浜氏の変節ぶりはこの通り

沖縄タイムス2008年年11月18日 

[魚眼レンズ]吉浜忍さん
沖縄戦の事実しっかりと
 「集団自決」訴訟の控訴審で原告の訴えを退ける判決が出たことについて「一審判決を踏襲したもの。おそらく原告勝訴にはならないと考えていた」と話す沖縄国際大学教授の吉浜忍さん。「当然の判決」と強調する

 「カリキュラム上の問題で突っ込んで話はできなかった」と断りながら、自ら講義でも学生に対して同判決について触れ、説明したという。

 「沖縄戦の歴史的な事実関係をしっかり丹念に教えることが大事。学生は逆にスローガン的、感情的なものではなく、事実を踏まえた沖縄戦を学びたいという気持ちが強い」と指摘。

 「今後もこれまでの沖縄戦の証言を継続的に教えていきたい」と気を引き締めている。

沖縄では、新聞が作る「定説」には、たとえ研究者といえども逆らえないということが、吉浜氏の変節ぶりから垣間見える。

吉浜氏は以前書いた「書評」のことはすっかりお忘れになったようで、沖縄タイムス紙上で再度豹変した「定説」を激しく主張している。

2007年3月31日『沖縄タイムス』朝刊27面を転載。

沖縄戦 ゆがむ実相

 高校教科書に掲載された沖縄戦の「集団自決」の実態が国によって隠された。文部科学省は、今回の教科書検定で「軍命の有無は断定的ではない」との見解を示し、過去の検定で認めてきた「集団自決」に対する日本軍の関与を否定。関与を記述した部分の修正を教科書会社に求めた。同省が変更理由に挙げたのは「集団自決」をめぐる訴訟での日本軍の元戦隊長の軍命否定証言と近年の「学説状況の変化」。文科省の姿勢に、県内の関係者からは「沖縄戦の実相の歪曲」「殉国美談に仕立て上げている」と批判が出ている。
 沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教は「検定意見で日本軍の『集団自決』への関与がぼかされたが、軍隊が誘導したのが実態だ」と沖縄戦の実相を指摘する。その上で「国によって沖縄戦が書き換えられた。これまでの研究や調査を逆転させようという政治的意図を感じる」。(略)

                    ◇

現在沖縄タイムスと琉球新報が捏造した「定説」に真っ向から異論を唱えている星雅彦氏と上原正稔氏が、事実上沖縄論壇から干された状態にある。

これを考えれば、沖縄の識者たちが、次々と沖縄二紙に追随し、変節していくのもむべなるかなで、同情の念を禁じえない。

沖縄の学者さんたちは変節しなきゃ生きていけない。お気の毒。(涙)

 

■宮城晴美氏の転向

『母の遺したもの』の出版により軍命という「定説」を否定した宮城晴美氏自身も「集団自決訴訟」以降は、左翼勢力に取り込まれていき、何と裁判に証人として出廷する僅か一週間になって、軍命説に転向したと証言し裁判長を愕かしている。

宮城晴美氏が提出した陳述書の抜粋を引用するが、梅澤隊長が「命令した」という根拠が驚天動地の噴飯ものである。

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陳  述  書
2007年6月27日

(略)

(2) 部隊長命令についての手記の書き改めについて


本書の手記では、母は、『家の光』掲載の手記(乙19)や『沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島』(下谷修久・乙6)掲載の手記に書いた「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」との記述を削除し、本書38~40頁にあるように、3月25日夜に助役の宮里盛秀氏らに付いて梅澤部隊長のところに行ったときのことを書き加えました。


「老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」
との助役の申し出に対し、梅澤隊長はしばらく沈黙したのちに、沈痛な面持ちで
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
と、そのときは申し出に応じなかったもので、『家の光』(乙16)や下谷修久氏の本(乙6)に掲載した手記に書いたような梅澤部隊長の命令があったとはいえないというものです。


原告の梅澤氏は、3月25日夜の助役とのやりとりについて、
「決して自決するでない。生き延びて下さい」
と述べたと主張しているとのことですが、母は、1977年(昭和52年)3月26日の33回忌の日に私に経緯を告白して以来、本書に書いてあるとおり
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
と述べたと言っています。母は梅澤部隊長に申し訳ないという気持ちにかられて告白し、手記を書き改めたのですから、「決して自決するでない」と聞いたのなら、当然そのように私に話し、書いたはずです。


本書262頁に書きましたように、母は、1980年(昭和55年)12月中旬に那覇市のホテルのロビーで原告の梅澤氏に面会し、1945年(昭和20年)3月25日の夜の助役と梅澤氏とのやり取りについて詳しく話しましたが、梅澤氏は当夜の助役らとの面会そのものについて覚えていませんでした。「決して自決するでない」との梅澤氏の言い分は、記憶にないことを、自分の都合がいいように、あたかも鮮明に記憶しているかのように記述したものと思われます。もし記憶しておれば、梅澤氏はその時訪ねてきた助役・宮里盛秀氏の名前を、前述の「仕組まれた『詫び状』」(乙18)117頁で紹介しましたように「宮村盛秀」と、遺族の戦後改姓の苗字を書くはずはありません。


母は、少なくとも自分の目の前での部隊長の自決命令はなかったということでそのことを梅澤氏に告白し、手記を書き改めたのですが、確かに3月25日の助役とのやりとりの際に、梅澤部隊長は自決用の弾薬は渡していませんが、
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
といっただけで、自決をやめさせようとはしていません
住民が自決せざるをえないことを承知のうえで、ただ軍の貴重な武器である弾薬を梅澤氏自ら渡すことはしなかったというに過ぎなかったのではないかと思います。

             ☆    

梅澤隊長は米軍上陸を目前にして、貧弱な武器弾薬で圧倒的優勢な米軍に太刀打ち向かう準備で多忙な最中、村の住民の自決用手りゅう弾の支給を断って「帰るように」と言っている。

その後自決した住民たちと駆動を共にしたわけでもないのに「自決をやめさせようとしていない」という理由で、自決命令を出したと証言されてはたまったものではない。

これではヤクザの言いがかりよりも酷いではないか。

このようなデタラメな証言が大手を振ってまかり通り、学者たちがいとも簡単に自説を偏向し次々と転向していく。

これが「異論を許さぬ全体主義」と言われる所以である。

 

 

■カンパ協力のお願い■

 

 

これまで皆様のカンパにより戦いを継続してきましたが、沖縄のマスコミから村八分状況の上原氏は現在闘争資金に不足をきたしています。

担当弁護士の先生も手弁当で支援して下さっていますが、打ち合わせ等をするにも交通費・滞在費等の出費を無視できません。

沖縄の閉塞した言論空間に戦いを挑んでいる上原さんの訴訟に、三善会は皆様の支援金のご協力のお願いを致しております。

支援金は、裁判の支援・報告会・講演会等の開催や広報活動等に活用させて頂きます。
振込手数料につきましては振込者にてご負担下さるようお願いします。

なお次回の第6回公判時には、日頃お忙しいご支援者の皆様のため日曜日を利用して「沖縄の言論封殺と沖縄戦」をテーマにした講演会を計画しております。

詳細が決まり次第改めて御案内いたします。

 

【付記】

八重山日報に、上原正稔さんの「琉球新報に対する『言論封殺』の戦い」について小論を寄稿いたしました。

1月23日より2回に分けて掲載されました。

今後「パンドラのはこ掲載拒否訴訟」については続編を寄稿予定です。

これを機会に八重山日報のご購読を「勝手に」お勧めいたします。

狼魔人

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http://www.yaeyama-nippo.com/

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 上原正稔を支援する三善会にご協力をお願いします。

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ゆうちょ銀行からの振込の場合
【金融機関】ゆうちょ銀行
【口座番号】記号:17010 口座番号:10347971
【名  義】サンゼンカイ.
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ゆうちょ銀行以外の金融機関からの振込の場合
【金融機関】ゆうちょ銀行
【店  名】七〇八(読み:ナナゼロハチ)
【店  番】708
【口座番号】普通:1034797
【名  義】サンゼンカイ.

琉球新報の言論封殺と捏造報道に敢然と戦いを挑んでいる上原正稔さんをご支援下さい。

  琉球新報の言論封殺に対し、徒手空拳で戦いを挑んでいるドキュメンタリー作家上原正稔氏の「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第6回公判は3月13(火)10時30分の予定です。

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