狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2012-05-09 11:34:10 | 県知事選

■沖縄タイムス 1983年6月8日

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの重いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が以外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

              ☆

 (書きかけで誤ってアップしてしまいました。続きは追ってアップします)

 

【追記】

(約30年前の沖縄タイムスの記事のアップはこれで完了ですが、この稿は未完であり続きは追ってアップの予定です。

記事を読んでのコメントは歓迎です。)

コメント (4)

八重山教科書問題と米軍占領下の教育行政

2012-05-09 08:23:29 | 県知事選

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沖縄の新聞の見出しで「差別」の文字を見ない日は無い。

今朝の沖縄タイムスの一面、社会面のトップも「差別」の大見出しが躍っているが、本日の沖縄タイムスの目玉は教育面。

本日の話題は「教育面」の全頁を使った教育委員会制度特集についてである。

教育面は要保存である。

見出しを紹介する。

波乱呼ぶ橋下教育改革

首長関与強調 揺らぐ独立性ー教委の在り方改革必要 陰山英男氏(大阪府教育委員)に聞く。

独自取り組みで存在感ー犬山市・中野区ー「識者談話」首長に責任を(小川正人放送大教授ー教育行政学)

文科省、政治介入に苦慮 ≪教委制度改革案≫

28市町村に公募の委員 10年度 宜野湾市など

政治が教育に強く介入した戦前の反省から、アメリカに習って導入された教育委員会制度は教育の政治からの独立をうたい文句にしていた。 ところが戦後一貫して教育が政治の影響を受けなかったことは無い。世界でも珍しい政治集団の日教組が教育を支配してきたことは日教組のドンといわれる輿石東民主党幹事長の公言を待つまでも無く明白な事実である。

八重山教科書問題は玉津八重山地区採択協議会会長の独裁的手法がもたらした騒動だと沖縄メディアでは喧伝されたが、実は政治の「教育への不介入」を逃げ口上に首長が頬被りしてきた沖教組(日教組)の教育支配の弊害にメスを入れるべく断行した教育改革だった。

ほぼ同時進行で橋下徹大阪市長が挑戦している教育改革も形骸化した教育委員会制度の改革を柱に置いている点では玉津教育改革と相通ずるものがある。

八重山教科書問題で沖教組が法令無視の暴挙に及んだルーツを米軍占領下の教職員組合(沖教組の前身)の民主主義否定の暴挙である「教公2法阻止行動」に求めた興味深い論考を紹介する。

当日記でも何度か紹介したヒジャイさんのブログである。

教公二法と八重山教科書問題

真は1967年2月24日立法院を取り巻いている沖縄の教師たちである。大衆ではなく教師たちである。教公二法とは教師の政治活動を禁じたものである。復帰前の沖縄は教師が政治活動を自由にできた。革新系の立候補者が学校の職員室にやってきて、支持を訴えて握手するのは見慣れた風景だった。教職員たちは教公二法を阻止しようと立法院を取り巻いた。見ての通りものすごい人数である。

 沈痛な面持ちでハンガーストライキをしている屋良朝苗氏は沖縄教職員会長であり、初代の公選選挙主席であり、初代沖縄県知事である。屋良氏は社会党や共産党系ではなく戦後の沖縄の教育に情熱を傾けた人である。「祖国復帰して本土並みの環境になれば沖縄の学力も本土並みになる」と信じていた人間であった。その信念で復帰前は沖縄の教育環境を改善するために全国を周って教育資金集めに尽力した。彼の努力で日本政府を動かし政府からの援助も実現した。

 屋良氏たちのハンガーストライキの効果はなく、民主党(自民党系)は教公二法案の成立への手続きは進んでいった。危機を感じた教職員は10割年休闘争を決定して写真のように立法院を取り巻いた。そして、1967年2月24日、民主党が教公二法を強行採決しようとした時、教職員は警護している警察管をごぼう抜きにして立法院に突入して実力で教公二法の議決を阻止した。一部の議員はアメリカ軍のヘリコプターで脱出したという。
 教公二法闘争は教職員の政治力の強さを証明した事件であった。
 60~70年代の教員組織は沖縄の政治を主導した。あの頃活躍した若き教員たちが現在の60~70年代の教諭OBである。

 USCAR文書は興味深い。当時の新聞は教職員側の報道だけであり、警察や高等弁務官の話が報道されることはなかった。
 アンガー高等弁務官は「教公二法案を可決することは沖縄における民主主義がかかっています。民主主義や多数決のルールに従うのか、それとも暴徒のルールに従うかです。教師の政治活動や子供への影響の問題も重要なことですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです」と心配している。

 革新系政治家や知識人から植民地支配をしていると言われているアメリカのアンガー高等弁務官は「果たしてこの島で民主主義が生き残れるか」と教職員の運動を民主主義を破壊する存在とみなしている。そして、アメリカは沖縄の民主主義を守る側にあると認識している。アメリカが沖縄を民主主義社会にしようとしていたことが窺える。

 アンガー高等弁務官は、対立が沖縄人同士であるという理由で琉球政府からの琉球政府からの米軍の直接介入の要請を断っている。沖縄に三権分立の制度をつくったのはアメリカである。主席は民政府が任命したが、アメリカ軍の存在を除外すれば、沖縄は民主主義国家であった。沖縄人同士は民主的な関係であったのだ。アメリカ人が経営しているのはほとんどなかった。戦前までは武士階層や旧薩摩藩系が沖縄の経済を支配していたが、戦後のアメリカ民政府時代は戦前の特権階級の経営者はいなくなり、沖縄の庶民が自由に商売ができるようになった。平和通りは戦後に発展した自由市場である。たばこや酒は自由に販売できた。
沖縄経済はアメリカ流の自由貿易であり、外国人の投資も自由であったから、台湾人、フィリピン人、韓国人だけでなくインド人などの中東の人間も沖縄で商売をしていた。

 日本に復帰すると、外国人が急激に減っていった。フィリピンバーは嘉手納町、石川市、沖縄市の中の町などいたる所にあったが、今はなくなった。復帰後に残ったのは沖教祖や自治労の強力な政治力である。

 八重山教科書問題を冷静に考えれば、中学三年生の公民ひとつの教科書問題である。教科書は国が検定したものでありちっぽけな問題であるのに、沖教祖や教員OBや革新系知識人が育鵬社の教科書を採択したら軍国主義国家にもどるなどと妄想でしかない噂を振りまいて沖縄中を大騒ぎせた。いや、沖縄中が大騒きしたというのは疑問だ。新聞が大騒ぎしただけかもしれない。

 八重山教科書問題は教科書採択に重大な問題があるのではなく、1967年に警官隊さえ排除して教公二法の決議を阻止した教職員の絶大なる力が2011年でも健在であり、自分たちのテリトリーに侵入してきた育鵬社の教科書を排除しようと自分たちの組織を最大動員して多くの集会を開催したり、署名を集めたりして実力行使をしたということだ。

 生徒や親たちとは関係のない大騒ぎだ。

                        ☆

ヒジャイさんも紹介している「絶対権力者」のアンガー高等弁務官と当時の行政主席(現在の知事)との民主主義についての会話は興味深い。

アンガー高等弁務官「果たしてこの島で民主主義が生き残れるか」と教職員の運動を民主主義を破壊する存在とみなしている。そして、アメリカは沖縄の民主主義を守る側にあると認識している。アメリカが沖縄を民主主義社会にしようとしていたことが窺える。

ヒジャイさんが引用した「開封1次資料ーUSCA文書」から、高等弁務官と主席の会話を引用するが、絶対的独裁者と喧伝された高等弁務官が沖縄の民主主義の将来を危ぐしているのも歴史の皮肉である。

松岡政保主席「・・・琉球政府の教育局は教育行政に関してもはや指導力はありません。教育に関して指導しているのはむしろ教職員会です。」

アンガー高等弁務官「どんなことがあってもこれら2法案を可決するというあなた方の立てた目標はに賛同します。 民主党(筆者注・・現在の民主党とは別物で当時の沖縄の保守系与党)のためだけでなく、沖縄における民主主義の存在がかかっています。 これは根本的問題です。 民主主義や多数決のルールに従がうかです。 教師の政治活動や子供への影響の問題も重要ですが、より深刻なのは、果たしてこの島で民主主義が生き残れるかということです。」

この会話が行われた1967年から約半世紀経過したが、八重山教科書問題で沖教組や県教育庁が行った行動を見ると、45年前にアンガー高等弁務官が危惧したとおり「この島で民主主義は生き残れなかった」ということが証明されたことになる。

松岡主席の発言の「琉球政府」は「沖縄県」、「教育局」は「県教育庁」、「教職員会」を「沖教組」とそれぞれ入れ変えてみると、現在の沖縄の教育行政が半世紀前の米軍占領下の教職員会の政治色を脈々と受け継いでいることがわかる。

教育と政治の分離を旗印に教育委員会制度を日本に持ち込んだ米国だが、米軍占領下の沖縄では逆に教育の政治色が現在より強かったというのは歴史の皮肉である。

「教公二法」について知る県人も少なくなった。

琉球新報が「新報アーカイブ・あの日の紙面」として振り返っているが、現在でいえば県議会で民主主義のルールに則って議決しようとした法案を当時の先生方のルール無視の暴力行為で阻止したという沖縄の歴史上恥ずべき汚点という視点が欠け落ちているのは相変わらずである。

<26>「教公二法」本会議中止 1967年2月24日夕刊2010年2月26日

 

教公二法案が上程されることになった1967年2月24日の立法院は、早朝から約千人の警官隊と約2万人の教公二法阻止共闘会議の請願隊が激突し大混乱になった。立法院のガラス戸が壊され、請願隊と警官隊の双方にけが人が出るなど教公二法をめぐる激突は最悪の事態となった。請願隊は立法院の表と裏に総攻撃をかけ、警官隊と激しくもみ合い突破。午前11時すぎ、長嶺秋夫立法院議長が「本会議とりやめ」を発表した。
 24日午前5時半、警官隊約900人が立法院前に集結。表玄関と裏口に座り込む阻止団を実力で排除するごぼう抜きが開始された。午前9時25分、約300人の請願隊が院内に入ろうと殺到、玄関を固めた警官隊を逆にごぼう抜きにしていった。2時間にわたる波状攻撃の末、請願隊は立法院玄関を占拠。午前11時10分「本会議はとりやめ」の報告が流れ、立法院を包囲した2万人の請願隊からワーッと歓声が上がった。
 請願隊と警官隊の激突で約100人の負傷者が出た。警官に警棒で殴られた労組員の男性(27)は、頭に4針縫う重傷を負い「正当な請願も認めず殴り掛かってきた。警官は暴力団だ」と憤慨。一方、請願隊にこづき回され、顔面打撲を負った那覇署員(31)は「プラカードなどで殴られたことまでは覚えているが、あとは分からない。生きた心地がしなかった」と語った。
 24日午後6時すぎ、教公二法案は「現在の案は5月31日まで棚上げ」「6月から与野党が調整して新たな案の作成に努力」「調整案ができない場合は現在の案を廃案にする」旨の協定書を与野党が取り交わし、実質的に廃案とすることで決着した。

◆教公二法
 「地方教育区公務員法」と「教育公務員特例法」。もともと2法は年金制度、結核・産前産後の休暇など教職員の身分を保障するものだったが、勤務評定、政治行為の制限、争議行為の禁止などがあったため、沖縄教職員会では当初から一貫して反対の立場を表明していた。

                 ☆

 

【おまけ】

石垣市民の読者のコメントです。

    ☆

> Unknown (S里E利)
> 2012-05-08 05:15:00
> 涼太様

http://jaima.net/modules/readings/index.php?content_id=44

座談会出席者の人物ご紹介です。

中央、あの愚劣な「寸劇」会長役「江川義久」氏(前江川三津江教育長の
ご主人、旧姓大城)、左右の人物もご紹介しますね。


【座談会】長編ドキュメンタリー映画『ひめゆり』座談会出席者

向って右側、母上はひめゆり学徒の元教師、高齢ですがご健在。
■石堂徳一
昭和24年、石垣市大川生まれ。登小→石中、真和志中→八重高、首里高卒業後、
多摩川大学卒、琉大日本教育史研究室修了。八重高臨時教員を経て、
現在(は退職公務員。)、石垣市教育委員会文化財担当。

中央、寸劇と同じ語り口のコメントのようですね。
■江川義久
昭和19年、台湾・高雄生まれ。糸満小→糸満中、石中→八重高卒業後、
富山大学へ進学。38年間英語教諭を勤め、退職を迎えた。

向って左側、まじめ一筋の方だと思いますが、・・・。
■佐久川広海(向って左側、まじめ一筋の方だと思いますが、・・・。)
昭和19年、台湾・基隆に生誕。終戦を迎え与那国島渡る。
登小→石中を卒業。20歳の頃から喫茶店「朱欒(ざぼん)」を経営。
平成18年には「プロデュース海」を発足。音楽活動に邁進する。


石垣島読者より

 

■「沖縄県祖国復帰40周年記念大会」■

日時 5月12日(土)13時30分~
会場 宜野湾市民会館(宜野湾市役所隣)

500円(学生以下無料

オープニング
・琉球舞踊「かぎやで風」(4分程度)
 佐喜眞恭子(佐喜眞市長の妹様 ほか数名)

・地元・平安幼稚園園児による詩吟・素読(5分程度)

第一部
実行委員長挨拶(5分程度)
中地昌平(沖縄県工業連合会顧問 日本会議沖縄県本部会長)

メッセージ 
仲井真弘多(沖縄県知事)

来賓祝辞 (3分程度の短い挨拶)

平沼赳夫(たちあがれ日本代表)
・三好達(元最高裁判所長官  日本会議会長)
・佐喜真淳(宜野湾市長・・・27年ぶりに革新市政を倒す)
・宜保晴毅(豊見城市長・・・若手保守市長)

・復帰運動体験者より提言
 又吉康勇(元嘉手納村PTA会長 「沖縄子供を守る父母の会」副会長)

・未来を担う「復帰っ子」より提言
 宮平貴裕(日本青年会議所(JC)沖縄地区協議会 会長)

・決議採択(地元大学生2名)

第二部

「我が祖国チベットと沖縄」(15分)
ペマ・ギャルポ(桐蔭横浜大学教授・ブータン国王来日時通訳)

「日本人の誇り~沖縄県祖国復帰40周年を迎えて~」(40分)
特別ゲスト 津川雅彦(俳優)
津川氏はTBSドラマで佐藤栄作総理を演じ、祖国復帰に関心を持たれています。

フィナーレ
「ミルクムナリ」
「風の結人」
「ゆいとーま」
 琉球國祭り太鼓×日出克
日出克ライブ

沖縄が生んだ天才アーティスト日出克が歌い、琉球國祭り太鼓が舞い、祖国復帰40周年を祝います。

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