狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

続・沖タイの歪曲報道、徳嵩氏の返信

2012-05-13 07:40:01 | ★集団自決

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昨日行われた「復帰40周年祝賀式典」は、おかげさまで超満員の大盛況でした。

県内は勿論県外からも200人余の国民が参加し、定員の1300席は満席で立ち見がでるほどの盛況で。

日の丸の小旗を振って君が代を斉唱して復帰を祝した。

祝賀式典の主旨は、 40年前の5月15日祖国復帰の日を「屈辱の日」と恨みつらみで捉える「極悪複合体」の主張に対し、

「5月15日は『屈辱の日』ではなく祖国復帰の誇りと情熱を青少年に伝える日」と、捉える。

 

昨日と本日のエントリーは沖縄タイムスの歪曲報道についてだが、沖縄タイムスが憎悪を露にする国旗を振って国歌を斉唱し祖国復帰を祝した昨日の集会を沖縄タイムスがどのように報道するか。

ある種の期待を抱きつつ今朝の紙面を開いて見て、あまりにも予想が的中したのには思わず笑ってしまった。 

件の記事は一面、社会面を探しても何処にも見当たらない見当たらない・・・と思ったら、あった!

見落とすのも無理はない。 第二社会面の見おととしがちな最下部にベタ扱いの小さな記事。しかもなぜか参加人員の人数には触れていない。

一方、同じ日に行われた復帰関連の集会で、5月15日を「屈辱の日」と捉える極悪複合体が左翼の巣窟沖縄大学で行った「日本復帰40周年を問う」という集会は一面に大きく報道されている。

ここでは参加者は210人と書いてある。 水増しがお得意の沖縄タイムすのことだから、100名前後というのが実数だろう。

まぁ、実にわかりやすい話だが、沖縄タイムスは復帰40周年を「誇りの日」と捉える集会と、一方で「屈辱の日」と捉える集会の報道で、明らかな歪曲報道をしたことになる。

                 ☆

さて、昨日の続編です。

沖縄渡嘉敷島の集団自決に不幸にも遭遇した新任の巡査であった比嘉喜順さんが一番重要な生き証人であるにも関わらず、県内のマスコミは1人として比嘉さんに取材することは無かった。

比嘉さんが渡嘉敷島での「軍命」に関して重要な証言者であることは、曽野綾子氏が当時の渡嘉敷村長の古波蔵惟好氏に軍命の伝達経路を取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

   「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

 

地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる集団自決の証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である比嘉さん(旧姓安里)の名を報じるマスコミは少ない。

だが、比嘉さんの証言は、同じく地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に真実がある。

沖縄タイムスのブリーフィングや「鉄の暴風」のみを信じ込んだ徳嵩氏に対し、怒りを噛み殺しながら諫言する比嘉さん(安里巡査)の言葉には説得力がある。

該当部分を抜粋し、再度引用する。

≪戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 ≫

≪あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。≫

≪ 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。≫

≪赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。≫ 

真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。≫

 
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。≫

 
≪只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。≫

 

離れ小島の駐在巡査だった比嘉喜順さんが、公務員上級試験合格のエリートに対して「歴史の見方について、一方的な証言だけ捉えてはいけない」と諫言するくだりは、戦前巡査の誇りと矜持が感じ感動する。

田舎の元巡査に己の「軽挙妄動」を諭されたら、最近のイデオロギーまみれの識者ならば、理屈を押し曲げてでも自己弁解に走るものだが、誠実な方と思われる徳嵩氏は、直に自分の行いを反省し、これも直筆の手紙を比嘉さんに書き送る。

手元にその直筆私信のコピーがある。

私信ゆえ公開を躊躇したが、沖縄戦の検証の資料と判断し筆者の責任で次に全文公開する。

徳嵩氏の誠実な人柄が偲ばれる、これもまた感動の返信である。

                 

拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました。比嘉様には昭和二十年にあの激戦の慶良間、渡嘉敷島警察官としてご勤務をされていた由、さぞかし大変なご苦労をされたことと心から感謝申しあげたい気持ちでおります。 
昭和十八年の学徒出陣を体験し、大正十年生まれの私にとりましても、今次大戦は以後の人の人生を一変させる位の大事件でありました。 
沖縄戦が世界の戦史上でも稀に見る住民をまきこんでの大激戦でありましたことが、今なお幾つもの大きな問題となって尾を引いており、沖縄の歴史とともに、私達の胸に大きな痛みを甦らせます。
御手紙で御提示のありました曽野綾子著「ある神話の背景」を読了し、深く考えさせられました。
御高説の通り、ものがどの一方からの見方のみでその本質、真相を判断してはならないことがよくわかりました。
国会においても一貫して沖縄問題を担当し、殊に昭和四十四年に、衆議院職員初の調査団の一員として沖縄を視察いたしましてより、一種の使命観をもって復帰に関する諸々の案件と取り組み、沖縄問題はいささか精通していると内心自負して参りました私にとりまして、如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた次第でありまして、勉強し直し、かつ真実を知る機会を与えて下さった御手紙に対して衷心より感謝いたしたいと思います。

私は、昭和四十四年に沖縄に派遣されて以後、鉄の暴風、秘録沖縄戦記、沖縄ノート、沖縄問題二十二年等々沖縄に関する著書は次々と読んで、沖縄問題の本質と深淵を探り、そこで渡嘉敷の集団自決事件をと赤松大尉の存在を知りました。
その後、赤松大尉から陣中日記と御手紙を頂いたのは四十五年の秋のことでした。
戦争中は、その置かれた立場と環境によって軍もまた国民も半ば狂気のような行為、行動のあったことが思い出され、戦争というものが如何に人間を醜くするものか、それ故に平和がいかに尊いかを改めてかみしめている最近であります。

巷に伝えられている赤松大尉の集団自決事件にいたしましても、私は私なりに当時弱冠二十五歳の赤松大尉が周囲を米軍に包囲され、とことん追い詰められた状況の中にあって自決命令を下したとしても、あり得んであろうというように思っておりましたが、-非常に残酷な話ですがー当時渡嘉敷で軍民のパイプ役として必死の御活躍をされました比嘉様の生きた証言によって真相を教えて頂きましたことは、非常に幸いであり、また救いでもありました。 本当にありがとうございます。

実は先月ある席上で沖縄タイムスの某記者と同席いたしました折、たまたま私が赤松大尉の陣中日誌を持っていることに話しが及び、是非見せて頂きたいということでお貸ししましたが、今さら事件を暴きたてるといったような意図はもとよりなく、あのような記事となったことは心外でした。 かつて私は書き物にも、集団自決命令があったようなことを書いたものもありますが、今後は心して機会があるたびに赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真相はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っておりますので、どうぞそのように御高承を願います。
さて国民の1人として沖縄戦全体を考えますとき、大田海軍少将の最後の電報等はありましたが、戦争とは言え沖縄県民に余りにも大きな犠牲を払わせた結果につきまして深く反省し、県民に、遺族の方々に十分の償いと報いと感謝とを捧げなければならないと感じて今日まで過ごしてきました。

沖縄に関して、私の書いた拙文を同封いたします。 御高覧願えましたら幸いに思います。
最後に二十七年間に及ぶ異民族の支配下に苦労されました百万県民の御苦労をしのび、沖縄県の皆さんが真に他の府県同様に発展して参りますよう念ずるとともに、御年配の比嘉様がこれからの余生を大事にされまして、沖縄戦の貴重な体験を通じて反戦、平和の尊さを後進の者に御説諭下さいますよう、御健勝を切にお祈りいたします。 

                                                敬具

六月十八日

                          徳嵩 力

 

比嘉喜順様

                 ☆

■安里巡査を取材していた地元作家■

比嘉さん(安里巡査)の証言は地元マスコミには完全に無視されたが、「沖縄県警察史」という公的刊行物には詳細に採録されている。(昭和63)

だが、それより約20年前に安里巡査に取材をしていた沖縄在住の作家がいた。

「集団自決」について独自の取材をした詩人の星雅彦氏は『潮』(昭和46年11月号)で次のように書いている。

「そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は次のように言った。 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。  そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。 防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。 そして村長からも、同様の伝達が出た。 

それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」(「集団自決の真相」より孫引き)

 

星雅彦さんは係争中の「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の原告側証人として法廷に立つ予定である。

 

  

【おまけ】

沖縄タイムスが毎週日曜日に発行する「ワラビー」という子ども向けの新聞がある。

普段は滅多に見ることもないのだが、本日発行の紙面を見て驚いた。

新城俊昭沖縄大学客員教授を一面に登場させ「復帰の日、5月15日は屈辱の日」といわんばかりの見出しが躍っている。

基地被害怒り反対運動

米軍の事件・事故今も

明治前までは「琉球王国」

沖縄タイムスは、最近の読者は自分が思うほどバカではないと察したのか、印象操作の対象を子どもに向けたようだ。

これでは子ども新聞も「極悪複合体新聞の子供版ではないか!(怒)

 

★★★★
日本復帰40周年 日米友好促進・感謝festivalがおこなわれます。

日時:5月19日(土曜日)13:00〜15:30
場所:沖縄市民会館大ホール

参加無料です
皆さん奮ってご参加ください。



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