狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

マッカーサーの置土産、自虐史観の極致、カーチスルメイ

2024-04-26 04:39:46 | 政治
 

 

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■戦争はアメリカだけが相手ではなかった

敗戦とともに日本に「自由と民主主義」を指導すべくGHQ最高司令官マッカーサー元帥が乗り込んで来た。 当時の日本人はGHQはアメリカの軍隊と錯覚していたが、実際は米・英・仏・など連合軍であり、事実上指揮したのはGHQの最高司令官」マッカーサー元帥であった。 そのため当時の吉田茂ら官僚出身で政治的人脈の無いの政治家は、当時の大蔵省、通産省など官僚による派閥政治を構築した。そして戦前からの党人派政治家鳩山一郎(鳩山由紀夫元首相の祖父)と吉田茂は1955年、保守合同を行った。 当時マッカーサーが吹聴した「言論の自由」に便乗した社会党が国内で革命を起こさんばかりの勢いに対抗したのだ。

その一方吉田茂はマッカーサーの操り人形になることに甘んじて、日本国憲法、サンフランシスコ講和条約や日米安全保障条約締結により、アメリカの属国になる道を選んだ。

さて、マッカーサーは建前上は「自由と民主主義」を軍国主義日本に伝授うすいると言いながら、実際は数々の占領政策により「言論弾圧」を行い日本を二度と軍国主義に戻さない、という復讐の怨念に燃えていた。

マッカーサーの占領政策の中では、日本経済の発展に貢献した政策もあったが、「公職追放」は日本の優秀な人材を公職はおろか民間企業からまで追放し、日本を骨抜きの米国植民地国にしてしまった。

そこで登場するのが自虐史観である。

これも日本の教育が間違っていて、先の戦争はアメリカとやりアメリカに負けたと思っている日本人が多いが、実際には、戦ったのはアメリカとイギリス、オランダ、それに白人側に寝返った中国(白い中国という)だった。

そして、イギリス、オランダには完勝し、中国には圧倒的に優勢だった。アメリカとは戦争の後半、太平洋の海洋戦で敗れ、劣勢になったが、最終的な勝敗は不明のまま終わった??というと、ほとんどの日本人はびっくりするし、なにか誤魔化そうとしていると思う。洗脳とは恐ろしいものだ。

■アメリカとの戦争は終わらなかった

「戦争」とは「軍隊と軍隊」が戦うものであり、「軍隊が丸腰の市民を殺す」のは戦争ではなく、虐殺である。アメリカとの戦争は、1945年3月のルソン島(フィリピン)と硫黄島の戦いが最後で、4月1日に始まった沖縄戦は「戦争」と呼べるものではない。

つまり、軍隊と軍隊が戦う普通に言う「戦争」は3月17日の硫黄島の日本軍玉砕が最後で、そのあとは日本軍とアメリカ軍の戦闘は部分的なもので、アメリカ軍は日本軍を攻めなかった。3月10日の東京大空襲から、アメリカ軍は日本軍とは戦わず、もっぱら日本の婦女子(非戦闘員)を標的にして襲った。このようなことは日本ではほとんどないが、ヨーロッパのように残虐な民族では時々起こっている。その多くは宗教的なものを含んでいて、例えば十字軍によるコンスタンチノーブル荒凌や聖バルテルミーの虐殺などが有名──でも戦争ではなく虐殺に分類されている。戦争は残虐にならないようにルールがある。(『武田邦彦メールマガジン『テレビが伝えない真実』』2022年7月15日号より一部抜粋

 

Reviewed in Japan on April 18, 2013

日本人の復讐心はどちらかというと「水に流す」という習慣が勝っており、マッカーサーのように「フィリピンで日本軍に敗北し敵前逃亡させられた」という事実を恨みに持って復讐のため「バターン号」に乗って日本に上陸するよう例は少ない。

 
B29による日本本土への攻撃は、昭和19年6月15日、北九州の八幡製鉄所に対する空襲で始まった。この空襲は中国の成都から飛び立った爆撃機で行なわれたが、マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアム島が陥落してからは、日本空襲の基地を中国からマリアナ諸島に移して本格的な都市空襲を開始した。
この昭和19年11月末から20年8月15日までの9ヶ月間に、日本が被った人的被害は死傷者約80万6千人で、このうち33万人は死者である。この死傷者は、いわゆる太平洋戦争全期間における軍人の戦闘損害78万人を上回っている。

日本本土への空襲は広島・長崎への原爆投下の影響からか、あまりまともに採り上げてこなかった。被爆したそれぞれの都市は被害状況をまとめていても、日本全国となると意外とまとまった本がなかった。新潟県長岡市は昭和20年8月1日深夜に空襲を受け、そのときの戦没者追悼の意味をこめて毎年8月2、3日に花火を打ち上げているが、実は同じ深夜に水戸、富山、八王子にもB29が来襲し、多大な死傷者を出していた(長岡:1490名、水戸:1535名、富山:5936名、八王子:2900名)。このことはこの本で初めて知った。
 
■自虐史観の極致⇒カーチス・エマーソン・ルメイ少将

日本全国を焼夷弾で火の海にしたのがカーチス・エマーソン・ルメイ少将であったことがこの本の中でも示されているが、日本が佐藤栄作内閣のときに彼に勲一等旭日大綬章を授与したことは書かれていないので補足しておこう。
なお、昭和天皇はルメイへの親授を拒否された。

すべて水に流す─ケンカを収める庶民の知恵であり、日本人の寛容さのひとつである。

今、マスコミでは1964年の東京オリンピック開催や新幹線開業から“50年”でにぎわっている。だがもうひとつの50年もある。

1964年12月7日、アメリカ合衆国空軍大将のカーチス・ルメイ氏に日本政府が勲一等旭日大綬章を贈った日だ。

日本の航空自衛隊の育成に功績があったからという。航空自衛隊入間基地で浦茂航空幕僚長から本人に手渡された。

ルメイ氏は、太平洋戦争末期、東京大空襲など日本焦土化作戦や広島・長崎への原爆投下を指揮した人物。ベトナム戦争では「石器時代に戻してやる」と豪語し、北爆を推進したことでも知られる。

多くの市民を無差別に殺戮することは、人道に反する罪であり、国際法違反である。

国民の批判に対し、当時の佐藤栄作首相は「過去は過去。功績に報いる」と叙勲の理由を語り、小泉純也防衛庁長官も「功績と戦争当時の事情は別」と水に流してしまった。本来、勲一等旭日大綬章や文化勲章の“親授”は、天皇が直接手渡すのが通例だ。昭和天皇にどのような思いがあったのか、知る由もない。

来年で戦後74年。今なお多くの方が原爆症や戦争の惨禍が残した傷に苦しめられている。日本人なら決して水に流してはいけない歴史だ。

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