快気分析

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自然災害 仕組みとアプローチ -  大坂の陣 そして馬印が倒されても家康はまた討ち取られなかった

2016-12-08 19:50:10 | 地震 津波
 大坂の陣で最後に真田幸村が徳川軍の本陣に突撃した時に、徳川方の馬印が倒されたと言われています。
 家康が馬印が倒されたのは三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて以来となるようです。
 この事は検索サイトで「家康 本陣 馬印 三方ヶ原 大坂の陣」のキーワードで検索をかけていただければ沢山出て来ます。
 そしてこの二度共、家康は戦死もせず、捕らえられてもいません。
 理由は簡単で以前の記事にも書きましたが、家康のホンモノは、特にリスクが大きい場合に本陣にはいない事が多かったからと見られます。
 そして家康の本陣に攻め込み、馬印を倒した敵方武将、つまり武田信玄も真田幸村も直後または暫くして死亡した事になっています。
 幸村については筆者は生存説の方を考えていますが、真相はわかりません。
 武田信玄は結核が悪化して病死と言うのが通説ですが、野田城の攻防戦で狙撃されたとする説も有ります。
 筆者は野田城に限定せず、三方ヶ原の戦いから野田城の攻防戦に至るどこかで狙撃されて死亡、または深傷を負ってそれがもとで死亡したと見ています。
 野戦の能力が高い徳川軍には相当な技量の狙撃手がどうも少なからず存在していたのではないでしょうか。
 小牧・長久手の戦いでは、森長可が眉間を撃ち抜かれ即死しています。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E5%8F%AF

しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、井伊直政の軍と激突して奮戦するも水野勝成の家臣・水野太郎作清久配下の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。享年27。

引用終了

 自然災害が多かった三河、遠江では野戦で勝たねばならず、その野戦では優秀な狙撃手と大将の影武者の存在が必須だった為、それなりの体質になって行ったのだろうと思われます。