快気分析

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自然災害 仕組みとアプローチ -  大坂の陣 徳川軍は野戦の能力が何故高かったのか

2016-12-07 23:29:11 | 地震 津波
 戦国時代、特に家康の時代になってからは徳川軍に野戦で対抗できる大名は殆どいなかったようです。
 別に城を使った戦闘でも良かろうに、何故野戦に力を入れてかつ強かったのか? となるのわけで、これについては筆者は次のように考えています。

引用開始(一部抜粋)

http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm

1495(明応 4)年

(中略)

  8月15日 鎌倉で大地震。津波由比ヶ浜に押し寄せ、鎌倉大仏殿も破壊される。溺死者200余人。(野史)(和漢合運指掌図)

(中略)

1498(明応 7)年

(中略)

  6月11日 遠江で大地震。山崩れ、地割れあり。浜名湖が海とつながる。今切渡と呼ばれる。
        (後法興院政家記)(太平記)(高台寺日記)(お湯殿上日記)
(中略)

  8月25日 大地震。日本国中の堂塔諸家倒壊多数という。
        大津波で伊豆浦全滅、また伊勢大湊壊滅し、他三河、紀伊などで津波により多く死者を出す。
        閏10月まで余震続く。死者3万人以上という。(妙法寺記)(親長卿記)(言国卿記)

(中略)

1510(永正 7)年

(中略)

  8月27日 遠江で大津波。数千の家屋、陸地30町余が呑み込まれ海となる。死者一万余人。今切という。
        (実隆公記)(尚通公記)(拾芥記)(応仁記)(信越地震記)


引用終了

 と言うわけで、家康の生まれる少し前の15世紀末から16世紀は特に関東から遠江、三河にかけて、津波や大地震が多発しました。
 このような状況では軍事インフラが簡単に損傷、或いは倒壊して軍事的機能を維持できなくなるリスクが当時は高く、実際に損傷したものの軍事秘密で外部には漏らさなかったものも多かったはずで、こうした事が書物、或いは徳川家、水野家などの言い伝えなどでかなり強く伝えられ、それが戦闘方法にも採りいれられていたのだと思われます。
 そして実際に1585年の天正地震、1596年慶長伏見地震では秀吉が相当に自信喪失したのではないでしょうか。
 何故なら秀吉の秀でた戦闘ノウハウは軍事インフラに依存する割合が高く、実際にそれに主に力を入れていたのですが、この地震で「大地震が来ないと言う見通しは立たない為、確実な戦闘計画を構築できなくなった」と言う事になります。
 「大災害多発時には強い野戦」を得意とする家康の徳川軍は、実は遠江、周辺の三河、駿河、相模などの災害の経験や話が、野戦を主にする戦闘方法となり、言わば「免疫力」となった事も要素の一つとなり、次第に力を増して行ったと考えています。