西暦869年に発生した貞観地震ですが、その後の仁和地震までの主な地震や火山噴火などと最近との違いについて記事にしてみようかと思います。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen01.htm
869(貞観11)年
5月26日 陸奥で大地震。流光が昼の如く目撃された後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。
また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ1000余人が死亡。(三代実録16)
(中略)
871(貞観13)年
4月 8日 鳥海山(大物忌神社所在地)噴火。同山よりの河に青黒い泥水溢れ、臭気充満する。死魚河を塞ぐ。
泥流大きいもの2つ、小さいもの多数、海に達する。泥水により草木生えず。(三代実録20)(日本火山総覧)
(中略)
874(貞観16)年
3月 4日 薩摩開聞岳、夜雷霆が響き一晩中震動。噴火して降灰し禾皆枯れ、河水濾濁し魚死滅。
死魚を食べる者、或いは死に或いは病気になる。大宰府7月にこれを報告す。(三代実録26)
(中略)
878(元慶 2)年
9月29日 夜、相模、武蔵で大地震。揺れは京に達する。5、6日揺れが収まらず。
公私の舎屋全滅。地面陥没。百姓の圧死多数。(三代実録34)
(中略)
880(元慶 4)年
(中略)
12月 6日 夜、山城、京などで大地震。翌昼までに16回発生。大極殿の西北隅が崩壊。建造物の破損多し。
7日、陰陽寮は兵賊飢疫の兆しと判断し、天文奏を行う。
以降この月毎日のように大震小震が続く。(三代実録37、38)
(中略)
885(仁和 1)年
7月11日 6月より肥前に雨が降らず、国司諸神に奉幣。(三代実録48)
7月12日 薩摩にて、夜、晦冥にして衆星見えず、砂石が雨のように降る。開聞岳の噴火と見られる。(三代実録48)
7月13日 肥前で夜陰に粉土屑砂が降り、苗や草木が枯れる。その後雨が降りて枯苗再生する。(三代実録48)
8月11日 開聞岳噴火する。砂地が降り、昼間に夜の如し。田野が埋没し、人民が騒ぎだす。
神祇官卜して云うには、来春に薩摩国で疫病あると。
陰陽寮は占い、府辺東南の神、隣国に遷ろうとしている。よって蚕穀損耗あり。
それを受けて府司に下知して彼の両国をして部内の衆神に奉幣し以て冥助を祈らせる。
886(仁和 2)年
3月21日 地震あり。(三代実録49)
4月13日 地震あり。(三代実録49)
5月10日 7日よりの大雨で洪水。(日本紀略)
5月24日 上総、下総、安房で大地震あり。安房方面に黒雲あり、その中で電光ひらめき、地震を起こる。一晩中続く。
砂石粉土地上に積もる。草木悉く枯れ、馬牛の粉草を食して死する者はなはだ多し。
新島の噴火か。(三代実録49)(日本火山総覧)
6月15日 地震あり。(三代実録49)
887(仁和 3)年
7月 2日 大地震。6日、30日にも大地震。余震8月に至る。
天皇、仁寿殿から紫宸殿の南底に移り、大蔵省に命じて7丈の幄二を建て、御在所とする。
諸司倉屋、東西京師の廬舎多く倒壊し圧死者多数。失神して頓死する者もあり。亥刻また3回震動。
七道諸国同日大いに震動し、官舎多く倒壊。津波により溺死者多数。摂津国の被害は特にはなはだし。
8月 余震頻発し、5日には大地震あり。36種類の妖言が囁かれる。
紫宸殿と大極殿で大般若経を三日行う。(三代実録50)
引用終了
まず多少の火山性振動の活発化が有った場所は見受けられますが鳥海山かその近くでの火山噴火は東日本大震災後には発生していません。
そして今回は開聞岳噴火も発生していませんが開聞岳を挟むかのように桜島や霧島山、阿蘇山、口之永良部島、諏訪瀬島で噴火が発生していていてそのうちの一部は継続傾向です。
そして伊豆諸島の噴火と思われるものは以前に記事にした通り、ベヨネネース列岩の海底噴火と見られるものがありましたが西暦878年(元慶2年)に発生した相模、武蔵の大地震に相当するものも今回は現時点で発生していません。
この違いはどの様な状況を示し、そして今後どのような展開となるのでしょうか。
少なくと言える事は新元号が「令和」であって「元慶」のいずれか一文字は入っていないと言う点については理解できます。一方ではだからと言って大地震や噴火が無いという保障はないわけで「備え有れば憂い無し」と言う事になるかと思います。
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen01.htm
869(貞観11)年
5月26日 陸奥で大地震。流光が昼の如く目撃された後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。
また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ1000余人が死亡。(三代実録16)
(中略)
871(貞観13)年
4月 8日 鳥海山(大物忌神社所在地)噴火。同山よりの河に青黒い泥水溢れ、臭気充満する。死魚河を塞ぐ。
泥流大きいもの2つ、小さいもの多数、海に達する。泥水により草木生えず。(三代実録20)(日本火山総覧)
(中略)
874(貞観16)年
3月 4日 薩摩開聞岳、夜雷霆が響き一晩中震動。噴火して降灰し禾皆枯れ、河水濾濁し魚死滅。
死魚を食べる者、或いは死に或いは病気になる。大宰府7月にこれを報告す。(三代実録26)
(中略)
878(元慶 2)年
9月29日 夜、相模、武蔵で大地震。揺れは京に達する。5、6日揺れが収まらず。
公私の舎屋全滅。地面陥没。百姓の圧死多数。(三代実録34)
(中略)
880(元慶 4)年
(中略)
12月 6日 夜、山城、京などで大地震。翌昼までに16回発生。大極殿の西北隅が崩壊。建造物の破損多し。
7日、陰陽寮は兵賊飢疫の兆しと判断し、天文奏を行う。
以降この月毎日のように大震小震が続く。(三代実録37、38)
(中略)
885(仁和 1)年
7月11日 6月より肥前に雨が降らず、国司諸神に奉幣。(三代実録48)
7月12日 薩摩にて、夜、晦冥にして衆星見えず、砂石が雨のように降る。開聞岳の噴火と見られる。(三代実録48)
7月13日 肥前で夜陰に粉土屑砂が降り、苗や草木が枯れる。その後雨が降りて枯苗再生する。(三代実録48)
8月11日 開聞岳噴火する。砂地が降り、昼間に夜の如し。田野が埋没し、人民が騒ぎだす。
神祇官卜して云うには、来春に薩摩国で疫病あると。
陰陽寮は占い、府辺東南の神、隣国に遷ろうとしている。よって蚕穀損耗あり。
それを受けて府司に下知して彼の両国をして部内の衆神に奉幣し以て冥助を祈らせる。
886(仁和 2)年
3月21日 地震あり。(三代実録49)
4月13日 地震あり。(三代実録49)
5月10日 7日よりの大雨で洪水。(日本紀略)
5月24日 上総、下総、安房で大地震あり。安房方面に黒雲あり、その中で電光ひらめき、地震を起こる。一晩中続く。
砂石粉土地上に積もる。草木悉く枯れ、馬牛の粉草を食して死する者はなはだ多し。
新島の噴火か。(三代実録49)(日本火山総覧)
6月15日 地震あり。(三代実録49)
887(仁和 3)年
7月 2日 大地震。6日、30日にも大地震。余震8月に至る。
天皇、仁寿殿から紫宸殿の南底に移り、大蔵省に命じて7丈の幄二を建て、御在所とする。
諸司倉屋、東西京師の廬舎多く倒壊し圧死者多数。失神して頓死する者もあり。亥刻また3回震動。
七道諸国同日大いに震動し、官舎多く倒壊。津波により溺死者多数。摂津国の被害は特にはなはだし。
8月 余震頻発し、5日には大地震あり。36種類の妖言が囁かれる。
紫宸殿と大極殿で大般若経を三日行う。(三代実録50)
引用終了
まず多少の火山性振動の活発化が有った場所は見受けられますが鳥海山かその近くでの火山噴火は東日本大震災後には発生していません。
そして今回は開聞岳噴火も発生していませんが開聞岳を挟むかのように桜島や霧島山、阿蘇山、口之永良部島、諏訪瀬島で噴火が発生していていてそのうちの一部は継続傾向です。
そして伊豆諸島の噴火と思われるものは以前に記事にした通り、ベヨネネース列岩の海底噴火と見られるものがありましたが西暦878年(元慶2年)に発生した相模、武蔵の大地震に相当するものも今回は現時点で発生していません。
この違いはどの様な状況を示し、そして今後どのような展開となるのでしょうか。
少なくと言える事は新元号が「令和」であって「元慶」のいずれか一文字は入っていないと言う点については理解できます。一方ではだからと言って大地震や噴火が無いという保障はないわけで「備え有れば憂い無し」と言う事になるかと思います。