快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  明智光秀に謎が多い理由と「水野監物守隆」の非人扱い

2019-11-10 21:36:01 | 明智光秀
 明智光秀の生い立ちやその後について謎が多い理由については既に今月の記事で書いた通りです。
 最もわかりやすい例を挙げるならば、例えば「水野 守隆  当代記」などで検索すればすぐに関連するコンテンツが出て来ると思えますが、つまり明智光秀に加勢した水野監物守隆が明智光秀が敗死した途端に「扱い」された事です。
 主君である信長を討ったという明智光秀が水野監物守隆以上の「」であったならば、朝廷が「征夷大将軍」に光秀を任命するわけはないのです。
 少なくとも本能寺の変直後に於いては明智光秀は「」ではなかった。
 これが何を意味するのか?と言うとそれは秀吉による強権支配が情報統制を伴うどれだけ恐ろしいものだったか、と言う事だったかと思っています。

仕組みとアプローチ -  播磨灘を震源とする有感地震を考える

2019-11-10 09:46:12 | 地震 津波
 今日になって播磨灘を震源とする有感地震が2度有りました。
 このエリアを震源とする有感地震は2004年以降に限れば次の通りです。

                    Mj 最大震度
2019年11月10日  4時44分ごろ 播磨灘 3.3  1
2019年11月10日  3時42分ごろ 播磨灘 3.1  1
2019年10月3日  20時32分ごろ 播磨灘 2.6  1
2019年2月3日   7時57分ごろ 播磨灘 2.9  1
2015年12月19日 20時48分ごろ 播磨灘 3.6  2
2014年11月8日  10時56分ごろ 播磨灘 2.5  1
2014年4月7日 13時07分ごろ 播磨灘 3.0  2
2013年4月27日 13時06分ごろ 播磨灘 2.8  1
2013年4月27日 8時06分ごろ 播磨灘 3.5  2
2013年4月13日 6時09分ごろ 播磨灘 3.2  1
2012年3月24日 6時14分ごろ 播磨灘 3.2  2
2012年3月24日 1時31分ごろ 播磨灘 2.5  1
2011年10月21日 13時44分ごろ 播磨灘 3.0  2
2011年10月7日 5時05分ごろ 播磨灘 2.5  1
2011年4月16日 23時37分ごろ 播磨灘 3.1  1
2011年2月14日 0時15分ごろ 播磨灘 2.5  1
2007年1月1日 0時50分ごろ 播磨灘 3.2  2
2006年7月4日 10時12分ごろ 播磨灘 2.4  1
2006年4月14日 21時22分ごろ 播磨灘 2.6  1
2006年2月1日 15時29分ごろ 播磨灘 2.9  2
2005年7月25日 9時08分ごろ 播磨灘 3.0  1
2004年12月30日 19時20分ごろ 播磨灘 2.7  1
2004年12月10日 5時38分ごろ 播磨灘 2.8  1
2004年10月30日 22時37分ごろ 播磨灘 3.2  1
2004年6月25日 18時58分ごろ 播磨灘 2.7  2
2004年3月10日 15時09分ごろ 播磨灘 3.0  1

 いつ継続的に発生したか?ではなく、「いつ空白期が有ったか」に着目すると2007年1月1日 から2011年2月14日の間が4年以上、そして2015年12月19日から2019年2月3日までが3年2カ月少々でやや似ている気もします。
 空白期と言えば今月8日に記事にした桜島の噴火で、噴煙の高さが5000メートルに達したのは2016年7月26日の昭和火口噴火以来3年ぶりでした。
 空白期の期間がやや違いますが、空白期間な長さが似ている点には着目しています。
 いずれも空白期で見ると広域の地殻やプレートのバランスが当時とやや似ている点が有るのかも知れない、と言う仮説で今後の推移を見るのも一つの手法かも知れません。
 

仕組みとアプローチ -  続編 明智光秀に謎が多い理由 「水野監物守隆」の例    

2019-11-10 00:54:04 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 明智光秀に協力した事が明確に残っている一人に水野監物守隆がいます。
 この武将は水野信元と兄弟か或いは近縁のようなのですが、ネットで調べる限りどうも確定できません。
 家康の母、於大の方とも兄弟、或いは近縁でもあるわけなのにこの「水野監物守隆」をネットで見てもWikipediaでは出てこないのです。
 多分「水野忠守」の事ではないかと言う事はWikipediaには書いてあるのですが、確定までは行きません。
 当時において明智光秀に協力的だった水野監物守隆は秀吉が政権を取った情報統制下では表に出せない存在となってしまい、水野家、徳川家(松平家)でもその存在を記録上消されて、本能寺の変の後に光秀と安土城に同行した後にどうなったかがわからなくなったのではないでしょうか。
 なので生存したとか、京都で見つかって処刑されたとかなど諸説有り、確定できないのでWikipediaにも載せられない状況が今も続いているのかと考えられます。
 秀吉亡き後には家康の徳川家と近縁の水野氏が情報を支配したにも拘わらず「水野監物守隆」の名誉回復が出来なかった。
 それらが意味する事とは「秀吉による情報統制が如何に強力だったか」と言う事かと思っています。
 「人たらし」と言う柔軟性の面がある一方で恐ろしい情報統制を強いた秀吉の二面性がわかる部分かと思います。