快気分析

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仕組みとアプローチ -  信長は家康とその重臣らを畿内に誘き出して討つつもりだったのか その3

2019-11-23 23:16:15 | 明智光秀
 信長は家康とその重臣らを畿内に誘き出して討つつもりは殆ど無かったとは言え、仮に家康が信長の要求に対してすべてNOと言った場合、最悪のケースになりますが信長は家康とその重臣らを皆殺しにするつもりが有った可能性はゼロではない、と言うよりもそうしたリスクをチラつかせる事で信長は家康との交渉に於いてより有利に展開しようとしたはずなのは当然だと思えます。
 では最悪のケースで信長が家康とその重臣らを実際に皆殺しにしても自身が手を汚さないような形にするにはどうすれば良いか?
 信長ならば次の様に考えたのかと思っています。
 それは織田信忠の家臣となって同行していた水野忠重、そしてその嫡男の水野勝成の存在です。
 水野忠重の兄である水野信元は信長の命令によるのですが表面上は家康が暗殺したという形になっています。
 なので水野忠重がこの真相をわかっていたとしても、仮に水野忠重とその嫡男の水野勝成が家康を討ったとした形を作られてしまった場合、世間は「水野忠重、水野勝成親子が忠重の兄である水野信元の仇を討った」としか見られないようになってしまい、そして家康を守ろうとした重臣らもこの仇討時の斬り合い等で命を落としたとなってしまう。
 そうした形を作れる選択肢を信長が予め用意しておいて家康との交渉(表面上は接待)に臨んだのではないか、と考えています。
 当然ですが、家康が信長の要求にNOという返事をするわけは有りません。
 仮に内心NOでも表面上は当然YESです。
 家康が窮地に追い込まれると偽物やウソを並べる傾向が有る事は以前の記事で既に書きました。
 本陣という所には家康の影武者しかいなくてそこへ敵方が突っ込んで来て罠にかかったり、家康が脱糞をした際「これは味噌じゃ(正確には焼き味噌じゃ)」と言った件でも明らかで、追い詰められた場合にはとりあえず偽物やウソを並べてそれから今後どうするかを考える。
 これが松平(徳川)家か或いは家康個人が当時他の武将より秀でていた所だったのでしょうか。
 

仕組みとアプローチ -  信長の対土岐一族警戒モードがエスカレート その発端の一つは上総土岐氏の動きではないか

2019-11-23 17:10:36 | 明智光秀
 個人的な考えに過ぎませんが、信長の土岐一族警戒モードが次第にエスカレートした結果が前回記事などで書いた事であると考えています。
 そしてその発端の一つですが調べて行くと当然と思える事が実は有ります。
 それは上総土岐氏の動向です。
 当時の上総土岐氏は北条氏の支援を受けて里見氏やその配下の一部の正木氏に対等する勢力でした。
 その上総土岐氏ではどうやら跡目争いなどのイザコザもなく1578年に土岐頼春に当主が代わったようで、この土岐頼春がどうやら優秀だったようです。
 北条氏と連携している万木城を主城とする上総土岐氏の跡取りがどうも優秀であるという事はおそらく信長の下へも伝わったはずで、これで北条氏と土岐一族の力は落ちそうにない。
 そして1578年時点での家康の正室は築山殿であり、その築山殿は今川氏系で、その今川氏は桶狭間の戦いの後に松平(徳川)氏と北条氏に分割されている、と言う状況から家康は北条氏、土岐一族の系統に傾く可能性が高い。
 それだけでなく家康の側室で最も家柄の高い西郷局もまた三河西郷氏の出てこれもまた土岐一族。
 信長の対土岐一族警戒モードがスイッチONになってしまったのも仕組みとして当然ではないでしょうか。
 この土岐頼春ですが、秀吉の時代になってもまだ露骨に土岐氏を名乗り、そして北条氏と連携して北条征伐で北条氏が1590年に敗北し万木城が陥落する最後まで土岐一族を貫いたのでした。
 尚、万木城に関してはこの場所と旧江戸城(現在の皇居)のほぼ中間地点である千葉県市原市不入斗に明智光秀側室の墓と伝わるものがあり、更にそこに明智重五郎の名も有るため、これが明智光秀の嫡男である明智十五朗を示すものであると言う説に同感なのは以前の記事で書いた通りです。

仕組みとアプローチ -  信長は家康とその重臣らを畿内に誘き出して討つつもりだったのか その2 信長による土岐一族分断政策とする見方

2019-11-23 13:51:32 | 明智光秀
 前回記事の中で書いた「信長が接待の時に家康へ何かを要求」したその内容ですが、結論から言えばその一つは家康の継室に信長の近縁者を約束させる事だったと考えています。
 家康の正室である築山殿は1579年に暗殺されましたが、その後に家康は正室にあたる継室は迎えていません。
 一つの個人的な見方に過ぎませんが、家康の嫡男だった信康とその正室である徳姫(織田信長の娘)の間には娘はできたものの嫡男ができずどうも信長は家康正室の首のすげ替えを考えていたのではないでしょうか。
 「いやいやもう少し様子を見ても大丈夫だったのではないか?」と言う見方が有るのかも知れませんが、そういう状況でもない事が実は発生していました。
 それは家康の側室で家柄が良かった西郷局に男子(後の秀忠)が誕生した事です。
 そしてそのまま信康と徳姫の間に男子が生まれない場合でかつ家康が継室を迎えなかったり、或いは継室との間に嫡男が出来なかった場合には順番からすると西郷局から生まれた後の秀忠が松平(徳川)家の当主となるわけで、信長の計画は大きく狂ってくるわけです。
 それで築山殿とその息子である信康を抹殺させ、空いたポストに信長の娘か近縁の女を嫁がせる、と言う目論見が信長にあっておかしくは有りません。
 家康と西郷局の間に男子(後の秀忠)が誕生したのは1579年5月2日、そして築山殿が暗殺されたのは1579年9月19日、信康が切腹させれたのは1579年10月5日。
 タイミング的にドンピシャリかそれに近いとしか思えません。
 信長は家康の継室にしようとしていた自分の娘か近縁者に会わせる為も兼ねて安土、京都へ招いた、とも考えられるのです。
 継室の座を万が一でも他の有力武将の娘、特に北条家などに取られてしまうと、それこそ信長は松平家乗っ取りのチャンスを失い、天下統一の夢も遠のくわけでこれは信長にとって深刻な問題だったのではないでしょうか。
 そして信長が家康を招いて要求したもう一つの事。
 これは長曾我部討伐の為の徳川(松平)勢による大規模な援軍です。
 そして上記、「家康の継室と長曾我部討伐の為の徳川(松平)勢による大規模な援軍」には共通点が有ると考えています。
 それは「信長は家康と土岐一族を分断させようとしていた」と言う事。これに尽きます。
 西郷局は格式が高い西郷氏の出て土岐一族。
 長曾我部氏は石谷氏と言う土岐一族が長曾我部元親の正室、そしてその嫡男である長曾我部信親は1565年の生まれですから1580年には15歳前後、1582年には17歳前後ですから、元服とそして正室を迎えていた可能性が高く、そしてその正室はまた土岐一族である石谷家の娘でした。
 信長は土岐一族を警戒し始め、1580年あたりには明確に長曾我部氏を弱体化する政策に転じ、1582年には長曾我部討伐に大軍を準備します。
 そしてその大軍が四国に渡ろうとしたまさにその時、本能寺の変は発生したのでした。
 
 

仕組みとアプローチ -  信長は家康とその重臣らを畿内に誘き出して討つつもりだったのか その1

2019-11-23 11:59:17 | 明智光秀
 本能寺の変に関しては誰が実行犯で誰が黒幕なのかと言う点で様々な論議がされていますがそれは別として、少なくとも言える事はこの変の直前に「家康とその重臣らを信長が安土、京都、堺等畿内に招いたと言うのが事実である」という事です。
 これについての見解もまた様々有り、その一つが「信長は家康とその重臣らを招き畿内に誘き出して討つつもりだった」とするものです。
 そしてもう一つは対局する見方あり、単純に「接待してその後に協力しあって行くためのもの」、と言う見方です。
 自分としての個人的な、しかも現時点での考え方に過ぎませんが、結論から言うならばどちらかと言えば後者の方に属し、「信長は家康と重臣らを討つつもりは当時無かった」と考えています。
 その理由ですがそれは次の通りです。
 確かに信長は仮病を装い、自分の城へ見舞いに来た実弟の信行を暗殺したという過去が有ります。
 しかしそれは争っていた、つまり信長に面と向かって逆らっていた、しかも身内の実弟であったからこそこうした露骨な暗殺ができたのであり、こうした手口を信長の兄弟でもない、しかも逆らっていない同盟関係の武将で有る家康らに対して果たして敢えて実行するのかどうか?と言うのは疑問です。
 こうした事を逆らってもいない同盟関係にある武将にしてしまうと、その後に同盟関係になろうとする武将がいなくなって行く可能性が有り、それは信長にはかえって不利と思えます。
 確かに信長は武田方との内通疑惑に対して釈明に行く途中の水野信元を1576年に暗殺させますが、このケースでは信長が城内で自ら手を汚すような事をせず、水野信元の親族である家康に命令して信長の城ではない所で家康の家臣に実行させています。
 そのあたりの信長も抜け目ないわけで、「逆らってはいないが疑いのある程度なら織田一族以外に暗殺させる」と言う手法を採っています。
 家康の当時正室だった築山殿と嫡男の信康の抹殺に関しては信長の命令によるものとか、家康と信康の不仲によるものとか様々な見解が有るようですが、少なくとも言える事はやはり信長は直接手を下さず、家康かその家臣の酒井忠次が命令した形になっていてだれが主体で実行させたのかは今もって謎となっています。
 仮に信長が家康ら一行を抹殺するとしたら、その前に多くの人達がわかるように反逆や裏切りを指摘していたはずだと思えます。その方が見せしめの効果が有るからです。
 なのでそうした指摘もせずに、しかも当時信長の実質支配していたエリアである安土、京都、堺等の畿内に家康らを接待名目で呼んでそこで抹殺すると言う事はあまり考えられない、と思っています。
 ですが一方で家康が主だった重臣らも連れてまで信長の所に行かねばならなかったのは何故か? については、もしかするとですが信長が接待の時に家康へ何かを要求し、その要求に対して家康が拒否した場合には重臣もろとも一斉に襲撃して消し去るつもりだった可能性は或いは有ったのかと思われます。
 そのために主だった家康の重臣らも敢えて同行させ、「桶狭間の戦いで今川義元だけでなく大半の重臣らも討たれてしまって今川勢が実質無力化した」と言う例の再現にもなり得る可能性も有るという言わば「脅し」も兼ねていたのではないでしょうか。
 では信長が家康に要求したと考えられる事とはどのようなものが有り得たのか?ですが長くなりましたので一度ここで区切って次回以降の記事にしたいと思います。
 

仕組みとアプローチ -  ラオスで発生したMw6.1の地震と「ミャンマーの傾向」則

2019-11-23 09:24:53 | 地震 津波
 少し前になりますが、ラオスでMw6.1の地震が発生しました。
 当エリアで今月発生したMw5.0以上の地震はEMSCで次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://www.emsc-csem.org/Earthquake/?filter=yes

2019-11-20 23:50:44.2 19.47 N  101.41 E  12 6.1
LAOS

2019-11-20 21:03:58.5 19.44 N  101.32 E  10 5.7
LAOS

引用終了

 ラオスとミャンマーでは国が別ですが近いエリアではあります。
 以前に当ブログで「ミャンマーの傾向則」、「ミャンマーの第2傾向則」について書いた事がありますが、先日は日向灘でMj5.2(MWも5.2)、最大震度3の地震が有りました。
 定かな事はわかりませんが、地球規模のプレートや地殻などのバランスでウネリらしきものが到来中、そして薩摩硫黄島や桜島の噴火、霧島山の火山性活動の活発化などの順番を考えるとそれはもしかして時計回りで作用しているのでしょうか。
 桜島の噴火は目立つ規模だったものの地震の方は現時点でそれほど大きなものではありません。
 今後どうなるのかについてはわかりませんが注目しています。
 日本を含むあのエリアのMw7以上の地震空白期はEMSCデータでは、2016年4月の熊本地震を最後に、既に3年7カ月を超えておりかなり長い空白期となっています。