快気分析

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仕組みとアプローチ -  正親町天皇が譲位した翌年に秀吉がバテレン追放令を発布

2020-12-07 20:02:15 | 明智光秀
 前回記事の続きで。
 正親町天皇ですが、在位は1557年11月17日 - 1586年12月17日。
 誠仁親王が1586年9月7日に薨去し、その遺子である和仁親王が12月には正親町天皇から譲位され後陽成天皇となったのでした。
 正親町天皇の崩御は1593年2月6日ですから、まだ譲位は早かったのではないか?とも思うのですが、これについては前回記事に書いたイエズス会との関係が有るかも知れないと見ています。
 秀吉がバテレン追放令を出したのは1587年。
 つまりイエズス会から離反する政策を採り出した時ですが、正親町天皇から後陽成天皇へ譲位が成された翌年です。
 つまり正親町天皇は元々イエズス会、キリシタンには反感が有ったものの、信長を倒す為にはイエズス会を味方にしなければならなかった。その代表例がキリシタンの賀茂在昌が陰陽頭になるのを容認した事です。
 それで信長、信忠が討たれ、信孝もやがて落命した後に織田勢が朝廷にとって危険で無くなって来た状況の中で、秀吉勢らが1586年末には九州平定がほぼ確実となり、1587年に九州平定。
 既にほぼ天下統一と同じになっていたわけで、ここから(おそらくと言う個人的な推定に過ぎませんが)正親町天皇はイエズス会との協定を破棄する方向に舵をきったのではないでしょうか。
 それが1586年12月の正親町天皇の譲位であり、まるで待っていたかのように1587年には秀吉によるバテレン追放令が発布されます。
 これらのプロセスからやはり正親町天皇とイエズス会の間には協定らしきものが存在していたように考えられます。
 ただこの協定らしきものが仮に正式文書等と言う形であったのならば、イエズス会による史料の中に正親町天皇批判するような記述が見られても自然だと思われるのですが、それらしきものが有りません。
 おそらくですが、「陰陽頭の賀茂在昌がキリシタンであるのを正親町天皇が容認するが、しかしイエズス会はグレゴリオ暦を日本では普及させない」と言う程度の暗黙の協定みたいなものだったのではないか、と考えています。
 

仕組みとアプローチ -  正親町天皇とイエズス会の間には協定が有った可能性が有る、と考える理由

2020-12-07 18:31:05 | 明智光秀
 本能寺の変が起きる前日の茶会では朝廷が使っていた京暦に対して、信長がまたもや三島暦の採用を言い出したようです。
 この茶会では当時の陰陽頭である賀茂在昌が何故か出席していなかったのですが、その賀茂在昌は、洗礼を受けたキリシタンであったのは確かなようです。
 ではキリシタンであるのにも拘わらず、なぜ賀茂在昌が陰陽頭になれたのでしょうか?
 調べて見ると、当時のローマ教皇は支配力拡大の意味も有って暦に力を入れており、それまでのユリウス暦の不具合な点を修正してグレゴリオ暦と言う名に変えてしまったのでした。
 そしてそれが始まったのが1582年の2月。まさに本能寺の変の数カ月前なのです。
 と言う事はキリシタンである以上、グレゴリオ暦をいずれ採用する方向にもなり得るわけで、キリシタンである賀茂在昌がなぜ陰陽頭になるのを正親町天皇が承認したのか? ですが答えは明らかと思っています。
 正親町天皇とイエズス会の間には「暦に関してお互いに干渉しない、と言う協定が有ったから」、としか考えられません。
 その協定が正式な協定なのか、裏(秘密)協定なのか、それとも暗黙の協定なのか、と言うのはわかりません。
 しかし正親町天皇もイエズス会も、当時に於いては信長が既に危険な方向に動き始めて手に負えなくなって来た為、言わば同盟関係の為に協定が必要となってこのような陰陽頭の人事になったのではないでしょうか。
 賀茂在昌が陰陽頭になったのは後継ぎが他にいない為だったようですが、仮に正親町天皇がキリスト教の暦(ユリウス暦かグレゴリオ暦)を拒否する考えだったのならば、賀茂在昌にキリスト教を棄教させたはずなのです。
 しかしそうした史実は特に現時点で確認されていない事から、賀茂在昌はキリシタンのまま陰陽頭になっていたものと考えられます。
 そして仮に本能寺の変の前日に開かれた茶会で賀茂在昌出席し、信長と対立する形になってしまうと、「翌日に起きた本能寺の変の黒幕があたかも賀茂在昌」のように多くの人に思われてしまいますね。
 「賀茂在昌は本能寺の変が起きる事がわかっていたから、前日の茶会には出席しなかった」と言う可能性は少なからず有ると思っています。
 真相はどうだったのでしょう。