前回記事の続きで。
正親町天皇ですが、在位は1557年11月17日 - 1586年12月17日。
誠仁親王が1586年9月7日に薨去し、その遺子である和仁親王が12月には正親町天皇から譲位され後陽成天皇となったのでした。
正親町天皇の崩御は1593年2月6日ですから、まだ譲位は早かったのではないか?とも思うのですが、これについては前回記事に書いたイエズス会との関係が有るかも知れないと見ています。
秀吉がバテレン追放令を出したのは1587年。
つまりイエズス会から離反する政策を採り出した時ですが、正親町天皇から後陽成天皇へ譲位が成された翌年です。
つまり正親町天皇は元々イエズス会、キリシタンには反感が有ったものの、信長を倒す為にはイエズス会を味方にしなければならなかった。その代表例がキリシタンの賀茂在昌が陰陽頭になるのを容認した事です。
それで信長、信忠が討たれ、信孝もやがて落命した後に織田勢が朝廷にとって危険で無くなって来た状況の中で、秀吉勢らが1586年末には九州平定がほぼ確実となり、1587年に九州平定。
既にほぼ天下統一と同じになっていたわけで、ここから(おそらくと言う個人的な推定に過ぎませんが)正親町天皇はイエズス会との協定を破棄する方向に舵をきったのではないでしょうか。
それが1586年12月の正親町天皇の譲位であり、まるで待っていたかのように1587年には秀吉によるバテレン追放令が発布されます。
これらのプロセスからやはり正親町天皇とイエズス会の間には協定らしきものが存在していたように考えられます。
ただこの協定らしきものが仮に正式文書等と言う形であったのならば、イエズス会による史料の中に正親町天皇批判するような記述が見られても自然だと思われるのですが、それらしきものが有りません。
おそらくですが、「陰陽頭の賀茂在昌がキリシタンであるのを正親町天皇が容認するが、しかしイエズス会はグレゴリオ暦を日本では普及させない」と言う程度の暗黙の協定みたいなものだったのではないか、と考えています。
正親町天皇ですが、在位は1557年11月17日 - 1586年12月17日。
誠仁親王が1586年9月7日に薨去し、その遺子である和仁親王が12月には正親町天皇から譲位され後陽成天皇となったのでした。
正親町天皇の崩御は1593年2月6日ですから、まだ譲位は早かったのではないか?とも思うのですが、これについては前回記事に書いたイエズス会との関係が有るかも知れないと見ています。
秀吉がバテレン追放令を出したのは1587年。
つまりイエズス会から離反する政策を採り出した時ですが、正親町天皇から後陽成天皇へ譲位が成された翌年です。
つまり正親町天皇は元々イエズス会、キリシタンには反感が有ったものの、信長を倒す為にはイエズス会を味方にしなければならなかった。その代表例がキリシタンの賀茂在昌が陰陽頭になるのを容認した事です。
それで信長、信忠が討たれ、信孝もやがて落命した後に織田勢が朝廷にとって危険で無くなって来た状況の中で、秀吉勢らが1586年末には九州平定がほぼ確実となり、1587年に九州平定。
既にほぼ天下統一と同じになっていたわけで、ここから(おそらくと言う個人的な推定に過ぎませんが)正親町天皇はイエズス会との協定を破棄する方向に舵をきったのではないでしょうか。
それが1586年12月の正親町天皇の譲位であり、まるで待っていたかのように1587年には秀吉によるバテレン追放令が発布されます。
これらのプロセスからやはり正親町天皇とイエズス会の間には協定らしきものが存在していたように考えられます。
ただこの協定らしきものが仮に正式文書等と言う形であったのならば、イエズス会による史料の中に正親町天皇批判するような記述が見られても自然だと思われるのですが、それらしきものが有りません。
おそらくですが、「陰陽頭の賀茂在昌がキリシタンであるのを正親町天皇が容認するが、しかしイエズス会はグレゴリオ暦を日本では普及させない」と言う程度の暗黙の協定みたいなものだったのではないか、と考えています。