快気分析

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仕組みとアプローチ -  メルショル(賀茂在昌の息子)を暗殺したのは誰か

2020-12-28 08:28:33 | 明智光秀
 本能寺の変当時、キリシタンでありながら陰陽頭であった賀茂在昌ですが、息子は暗殺されたようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%9C%A8%E6%98%8C

賀茂在昌
(中略)
在昌は信心の印として、11歳の息子メルショル(Melchior)を「神の奉仕に捧げる」すなわち修道士とする決意をした[28][29][33]。メルショルは在昌の帰洛後も九州に留まり、天正8年(1580年)にイルマン(修道助祭)に叙階されたが、天正13年(1585年)にはイエズス会を退会し、その3~4ヵ月後に天草で何者かによって暗殺された[34][注 10]。
(中略)
没後
在昌の帰洛によって、勘解由小路家の相続問題は一旦は解消したと思われたが、江戸時代初期、在昌の息子と思われる勘解由小路在信[6]の代に至って消息不明となり、賀茂氏勘解由小路家は完全に断絶した。在信に関する記録としては、在昌の記録が途絶えるのと前後して慶長3年(1598年)3月から『御湯殿上日記』に記述がみられ、慶長10年(1605年)10月11日、「勘解由小路修理大夫在信」という人物が堺にいるという『慶長日件録』の記述が最後である[5][6]。

在信の記録が消えた時期と入れ替わるかのように、賀茂氏庶流[注 14]で奈良を拠点とする幸徳井家が勘解由小路家に代わって暦道の家柄として台頭し、元和4年(1618年)には幸徳井友景[注 15]が同家では初の陰陽頭に任ぜられた[46]。

在昌と、その息子に当たると思われる勘解由小路在信については不明な点が多く、在昌の父・在富の代で賀茂氏勘解由小路家は実質絶家したものと見なされることが多い[47]。

引用終了

 メルショルがキリシタンのまま暗殺されたのではなく、イエズス会を退会して間もなく暗殺された、と言う事は反キリシタン勢力による暗殺ではないと言う事になるのでしょうか?
 そして1585年には賀茂在昌も既にキリスト教を棄教していたのか?となるのですが、実際にどうだったのかについては未だ調べ切れていません。