爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

Untrue Love(86)

2013年01月01日 | Untrue Love
Untrue Love(86)

 目の前に、十センチも離れていないところにいつみさんの顔がある。いまは下にある。関係性には変化が伴うものだとぼくは感じている。ぼくの頭にはいろいろなことが浮かび、このときは別の女性のことは考えていなかった。ただ、自分の未来に対して漠然とした公約数のようなものを考えていただけだ。

 ぼくは大学生という状態と近いうちに別れる。まだ、数年はあるが。仕事をそろそろ決めなければならない。仕事というより、自分が所属する会社だともいえた。そこには希望があるようだが、ある種の自由は減るのだろう。いずれ、誰かの夫になり、誰かの父の役目も引き受けるかもしれない。その娘だか息子には母がいる。それは当然、ぼくの妻なのだ。その小さな存在をあやす姿が誰なのか、ぼくはそこで考えていた。いつみさんのようにも思えた。この場では、いつみさんしか考えられなかった。だが、職場とそれに付随する海にただよう船の乗員になるぼくは、違う種類の海図を基準にして生活するようになるのだろう。思い掛けない嵐や暴風雨に巻き込まれた自分は、もう大学のときの淡い思い出や期待と意図しないにせよきっぱりと縁を切っているのかもしれない。道を外れたことも認知しない初心者のドライバーのように。

 しかし、いつみさんの身体がそばにある。どちらの汗か分からないほど、ぼくらは密着している。この事実をぼくには捨てられないと分かってもいた。また、捨てる理由も皆無だった。だが、やはり、海のうえでは違う予想や判断をするのだろう。生き延びる覚悟が変わってくる。両足が地に着いた状態ではない。何かしらの渇望が判断を狂わせる可能性だって大いにある。でも、それはすべて予測の範疇の話だった。具体的なものはひとつとしてない。だから、その考えは間延びしているのを保つのにも限度があった。それで、いつみさんの肉体を取り戻す。

 ぼくは進むべき道をまっすぐ快適に走っている。こうしている限り後悔というのは起こりえない。あの時、道から逸れたのだという失敗の焦燥もまったくない。だが、これから、もういまでもだが道は複数に別れる。どこかで勝手に行き止まりになってくれていれば良いとも思っていた。だが、それはあまりにも無責任な自分勝手な望みだった。どこかに決めなければ、いずれ事故が起きる。衝突が起こる。ぼくの運転免許証は取り上げられ、剥奪される。すべて象徴的な羅列だったが、架空の話でもなかった。

 いつみさんはラフな洋服を着ている。彼女もぼくらの関係が永続するものとはこころの奥では思っていないのかもしれない。それはぼくの望みのようでもあったし、ずるい煩悶でもあった。事実としても年齢の差が少なからずあった。それに拘るほど、いつみさんが世間の目を大切にしているとも思えない。また、ぼくといつみさんが相手にしなければならない世間などなかった。キヨシさんの同意や反対だけだったのだ。彼が、この関係を覆す努力をしている様子などあり得ない。だから、敵に仕立てる世間も消えた。

 いつみさんの背中がコーヒーを入れていた。彼女はこちらに向き、テーブルにそれを置いた。
「布団から、出てこいよ」

 ぼくはそろそろと床に足の裏を着ける。あるひととの距離が縮まり、また設定をし直す。いまはこの距離感が思いのほか難しかった。
「いい匂いですね」
「家でも飲む? 両親とかも好きだった?」

 それは普通の会話だ。誰もが行う質問だ。だが、そこでいつみさんとぼくの両親の関係は、ぼくという対象があり、それを介在させれば簡単に成り立ちえる、という事実に驚き、戸惑っていた。彼女に作為などないことはぼくがよく知っていた。これは、普通の一般的な会話の部類なのだ。

「みんな、飲みますね。父は、頭を使う職業だから、とくに」
「お父さんの思い出があるっていいね」いつみさんは素朴な口調で言った。そこには憧憬と見果てぬ願望があるようだった。だが、ぼくにとっては彼女たちの兄弟関係のほうが単純にうらやましかった。だから、そう言った。
「土手で、弟の野球を応援するほうが思い出としては恵まれていますよ」
「ないものねだりばっかりだね」

 いつみさんに、何が不足しているのかぼくには分からなかった。彼女はひとりですべてを兼ね備えているようにも思えた。木下さんにはどこかに淋しさがあるようだったし、それが彼女の美しさを際立たす背景の一部ともなっていた。ユミにとっては他者とふざけ合う様子がぴったりとあった。でも、ぼくにはここで、先刻までいた土手のぼくらふたりの後ろ姿が見えるようだった。いつみさんがひとりで座っていることは考えられない。いや、敢えてその映像をぼくは作り上げた。どこからかひとりの男性が画面に忍び入る。彼女に近付くために歩いている。そっと背中を男性の手が叩いて、いつみさんは振り返る。いつみさんの眼にする男性はいったい誰なのだろう? やはり、それはぼくであるべきだった。その姿は、それでも幻のようだった。先程までの姿ではない。未来のいつの日にか訪れる予知夢のなかの出来事のようでもあった。

「なにか、欲しくて、熱望してるものでもあるんですか?」
「敬語を交えない男の子との会話だよ」
 いつみさんは熱そうにコーヒーをすすり、そう言った。距離感の問題のようでもあった。ぼくが両親にきびしく諭された年長者への敬意の結果でもあるらしかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする