Untrue Love(90)
「昨日、あれからどうなったの?」紗枝は待ち遠しい様子でぼくに訊ねた。
ぼくらは意気投合して、いくらか疑問に思った彼の性格は丁寧に伏せて、彼女に具体的な状況を説明した。当然、紗枝のことをいろいろ質問されたことも。
「きちんと、愛らしい存在になるよう答えてくれた?」
「もちろん。でも、本当のことしか話さない。虚飾のないぼくが見たままの紗枝の姿を」
彼女はふくれたような顔をしながらも、充分に愛らしい笑顔を見せた。これも真実。そばにいるものに暖かな気持ちを抱かせる表情。だが、ぼくにはなぜだか引っかからない。でも、いつかそう遠くない将来に思い出すことはぼんやりと分かっていた。
「じゃあ、うまくいくね」
「うまくいくよ」ぼくは、そう他意もなく答える。最初がうまくいっただけで、それを軌道に乗せ、華やかなものにするのか、淋しい結末を与えるのかは当人同士の問題だった。でも、どこかでスタートを切らなければならない。号砲も鳴らない。歓喜する観客もいない。だが、世界のあらゆるところで秘かにスタートが切られているのだ。恋の気持ちだけに限らず、はじめて自分の子どもを目にするとかの情景としても。
質問される。尋問ということに近い形で。
ユミはぼくのことを問われている。黙っている状態が苦手な彼女が口をふさいでいるのを想像するのは困難だった。ぼくは、いまいる場所とは別に、そこで存在する。外見が話され、性格の特徴が話される。髪型が話され、親切さや冷たい部分が混じり合った気質が説明される。それはぼくと段々、遠くなる。だが、ぼくに反論をする機会は与えられない。そもそもその話題があるかないかも知らないのだ。もし、そこに足を踏み込む段階にいれば、交友関係はもっと広まり、楽しいかもしれないが、躊躇させるなにかがあった。また、躊躇しなければならない自分の環境があった。
いつみさんはキヨシさんとぼくのことを話題にあげる。「最近、来ないな」と言っているかもしれない。ぼくは、もうあの場でいつみさんに会う方法を取らなくてもよくなった。無口な咲子はそこでいつみさんが居ない日にバイトをしているが、彼らの新たな情報やうわさ話をすすんですることもなかった。ぼくが好奇心を露にして訊くこともない。そのような時間を作ることも最近ではなかった。
早間と会えば、咲子のことも少しは聞けた。だからといって、ぼくの内部に新たな情報が加わることもなければ、動揺などもまったく起こらない。ぼくらの住む世界はどこかで違うようでもあった。だから、それを埋めるかのようにぼくは紗枝のことを早間に伝えた。この前、新しい彼氏候補と会ってね、という感じで。
「そうか、良かったな」
それは、あまりにも他人行儀だった。あの候補者、選挙に受かって良かったな、というぐらいの重きしか置かれていないようだった。それが、過去を共にした時期のある女性に対しての感想だとは考えられなかった。でも、その冷静さが彼の持ち分であり、魅力にも通じる一端なのかとも思い直した。ウエットさが、それでもやはりなさ過ぎる気がしたが。
世間は、それを評判というのかもしれない。すると、世界は評判のやり取りで成り立っているようだった。誰かは職業を決めかけている、という噂が聞こえてきた。ぼくらは同じスタート地点にいながらも、出遅れる人間がどこかでいた。会社を選ぶという短距離の競争で負けて、最終的に長距離の問題にすりかえて勝つということは不可能なことに思えた。さらに、そのころのぼくは長期的な展望など有してはいない。すべてが、目の前にある砂場のなだらなか高低を、薄くならしているだけであるようだった。少し下に隠れているものを探し、探さなければいけないものをあえて深く埋めた。大雨でも降れば、いずれ突出するかもしれない。だが、大雨の心配などもしていられなかった。力も若さも頂上にあったのだ。
ぼくはひとりでバイトに向かいながら、早間と紗枝が別々の方向に歩き出し、もう近いところにいないことを知ったのだった。当初は同じところにいた。別れて、やり直すとしたら、その近いうちに始めないと、修復は不可能なのだとあらためて思った。ふたりは象徴的に背中も見えないところにいるのだろう。それが、「良かったな」という感想に通じた。ぼくも、誰かのことをその無関心さにくるみ、言葉をただ投げ出してしまうのだろうか。白状ということもなく、切迫という立場もなく、恐れるべき無関心のきつい狂おしい闇だった。
ぼくはバイト先でタイムカードを押す。「お疲れ」と、誰かが言い、ぼくもそう返事を放った。何の抑揚もない、力のこもっていない言葉たちだった。早間は紗枝に対して、同じような感情しかないのだろう。すると、次は咲子の番のような気がする。それが、無駄な心配であればいい、杞憂で終わればよいのだとも考えていた。だが、ぼくの心配の範疇ではないのかもしれない。それぞれが、それぞれのこととして解決する。隣の家の不審な虫のことを心配してもはじまらない。ぼくは、すでに自分の周囲のことだけでも手一杯だったのだ。
木下さんが今日もいる。彼女は素敵にぼくに笑いかけた。それが喜びでもあり、束縛ともなり、途絶えない魅力でもあった。ぼくはそれを失うのを恐れる。しかし、あまりにも手を広げすぎた。受験を終えた自分が真っ先に考えた女性との軽やかな生活が、ぼくにとっては深いものとなることを知らなかった。また、全面的にぼくを受け入れる人がそんなにもいることも知らなかった。ゼロからイチの間ぐらいで成り立っていると想像していたのに。サンでも多かったのだ。だが、ぼくも渾身の力をこめて笑顔を返す。だが、実際にはそのような作為もなく自然とそれはぼくに浮かび上がった表情なのだ。恵まれるということの正当な基準をぼくは知らないのだ。だが、またこころのない挨拶を別のひととして、我にかえる。
「昨日、あれからどうなったの?」紗枝は待ち遠しい様子でぼくに訊ねた。
ぼくらは意気投合して、いくらか疑問に思った彼の性格は丁寧に伏せて、彼女に具体的な状況を説明した。当然、紗枝のことをいろいろ質問されたことも。
「きちんと、愛らしい存在になるよう答えてくれた?」
「もちろん。でも、本当のことしか話さない。虚飾のないぼくが見たままの紗枝の姿を」
彼女はふくれたような顔をしながらも、充分に愛らしい笑顔を見せた。これも真実。そばにいるものに暖かな気持ちを抱かせる表情。だが、ぼくにはなぜだか引っかからない。でも、いつかそう遠くない将来に思い出すことはぼんやりと分かっていた。
「じゃあ、うまくいくね」
「うまくいくよ」ぼくは、そう他意もなく答える。最初がうまくいっただけで、それを軌道に乗せ、華やかなものにするのか、淋しい結末を与えるのかは当人同士の問題だった。でも、どこかでスタートを切らなければならない。号砲も鳴らない。歓喜する観客もいない。だが、世界のあらゆるところで秘かにスタートが切られているのだ。恋の気持ちだけに限らず、はじめて自分の子どもを目にするとかの情景としても。
質問される。尋問ということに近い形で。
ユミはぼくのことを問われている。黙っている状態が苦手な彼女が口をふさいでいるのを想像するのは困難だった。ぼくは、いまいる場所とは別に、そこで存在する。外見が話され、性格の特徴が話される。髪型が話され、親切さや冷たい部分が混じり合った気質が説明される。それはぼくと段々、遠くなる。だが、ぼくに反論をする機会は与えられない。そもそもその話題があるかないかも知らないのだ。もし、そこに足を踏み込む段階にいれば、交友関係はもっと広まり、楽しいかもしれないが、躊躇させるなにかがあった。また、躊躇しなければならない自分の環境があった。
いつみさんはキヨシさんとぼくのことを話題にあげる。「最近、来ないな」と言っているかもしれない。ぼくは、もうあの場でいつみさんに会う方法を取らなくてもよくなった。無口な咲子はそこでいつみさんが居ない日にバイトをしているが、彼らの新たな情報やうわさ話をすすんですることもなかった。ぼくが好奇心を露にして訊くこともない。そのような時間を作ることも最近ではなかった。
早間と会えば、咲子のことも少しは聞けた。だからといって、ぼくの内部に新たな情報が加わることもなければ、動揺などもまったく起こらない。ぼくらの住む世界はどこかで違うようでもあった。だから、それを埋めるかのようにぼくは紗枝のことを早間に伝えた。この前、新しい彼氏候補と会ってね、という感じで。
「そうか、良かったな」
それは、あまりにも他人行儀だった。あの候補者、選挙に受かって良かったな、というぐらいの重きしか置かれていないようだった。それが、過去を共にした時期のある女性に対しての感想だとは考えられなかった。でも、その冷静さが彼の持ち分であり、魅力にも通じる一端なのかとも思い直した。ウエットさが、それでもやはりなさ過ぎる気がしたが。
世間は、それを評判というのかもしれない。すると、世界は評判のやり取りで成り立っているようだった。誰かは職業を決めかけている、という噂が聞こえてきた。ぼくらは同じスタート地点にいながらも、出遅れる人間がどこかでいた。会社を選ぶという短距離の競争で負けて、最終的に長距離の問題にすりかえて勝つということは不可能なことに思えた。さらに、そのころのぼくは長期的な展望など有してはいない。すべてが、目の前にある砂場のなだらなか高低を、薄くならしているだけであるようだった。少し下に隠れているものを探し、探さなければいけないものをあえて深く埋めた。大雨でも降れば、いずれ突出するかもしれない。だが、大雨の心配などもしていられなかった。力も若さも頂上にあったのだ。
ぼくはひとりでバイトに向かいながら、早間と紗枝が別々の方向に歩き出し、もう近いところにいないことを知ったのだった。当初は同じところにいた。別れて、やり直すとしたら、その近いうちに始めないと、修復は不可能なのだとあらためて思った。ふたりは象徴的に背中も見えないところにいるのだろう。それが、「良かったな」という感想に通じた。ぼくも、誰かのことをその無関心さにくるみ、言葉をただ投げ出してしまうのだろうか。白状ということもなく、切迫という立場もなく、恐れるべき無関心のきつい狂おしい闇だった。
ぼくはバイト先でタイムカードを押す。「お疲れ」と、誰かが言い、ぼくもそう返事を放った。何の抑揚もない、力のこもっていない言葉たちだった。早間は紗枝に対して、同じような感情しかないのだろう。すると、次は咲子の番のような気がする。それが、無駄な心配であればいい、杞憂で終わればよいのだとも考えていた。だが、ぼくの心配の範疇ではないのかもしれない。それぞれが、それぞれのこととして解決する。隣の家の不審な虫のことを心配してもはじまらない。ぼくは、すでに自分の周囲のことだけでも手一杯だったのだ。
木下さんが今日もいる。彼女は素敵にぼくに笑いかけた。それが喜びでもあり、束縛ともなり、途絶えない魅力でもあった。ぼくはそれを失うのを恐れる。しかし、あまりにも手を広げすぎた。受験を終えた自分が真っ先に考えた女性との軽やかな生活が、ぼくにとっては深いものとなることを知らなかった。また、全面的にぼくを受け入れる人がそんなにもいることも知らなかった。ゼロからイチの間ぐらいで成り立っていると想像していたのに。サンでも多かったのだ。だが、ぼくも渾身の力をこめて笑顔を返す。だが、実際にはそのような作為もなく自然とそれはぼくに浮かび上がった表情なのだ。恵まれるということの正当な基準をぼくは知らないのだ。だが、またこころのない挨拶を別のひととして、我にかえる。