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Untrue Love(94)

2013年01月14日 | Untrue Love
Untrue Love(94)

 大学生という立場にいることを思い出す。友人の幅を広めようと努力もしなければ、深める決意もなかった。だが、不思議と紗枝とは話した。ある個人との関係が結ばれているということは頼み事ができたり、頼まれ事が生じたりするという面もあった。そういう機会と無縁ではいられないのだ。

「それで、人数が少ないので、順平くんも聴きにきてくれない?」と、紗枝に言われ、管弦楽団のチケットを手渡された。「友だちがフルートをしてるから。すごく上手いの。来てくれたら、誰か女の子を紹介してあげるから。そういう相手、まだ、いないんでしょう?」

 彼女は新しい男性を見つけていた。そいつには、ぼくも会った。その演奏会にいっしょに来るのかもしれない。
「でも、寝ちゃうかもしれないよ」
「いいのよ、座席にさえいてくれれば。でも、寝ないひとなんてどれぐらいいる?」

 安眠剤としての音楽。手に握られたチケットに書かれている日付を確認し、その日の予定をぼくは思い浮かべる。なにもない。見事になにもない。

 その日になって、ひとりで行った。入口付近で紗枝とその男性に声をかけられた。ふたりが並んでいると似合っているとも言えたし、不釣合いでしっくり来ないとも思えた。近所の犬がいつもと違うひとと散歩をしている姿をなぜかぼくは思い出していた。犬は安心している。家族のうちの誰かなのだろう。だが、そのいつもいるひとは、今日はなにをしているのだろう? 不在の理由は。旅行でも行ったのか。それとも、病気で入院でもしてしまったのだろうか。そう思い浮かべるのには理由があった。紗枝と知り合ったのは、早間を介してだったからなのだ。ふたりはいっしょにいることに喜びを感じ、ときには喧嘩もしていたが全般的にずっとつづく関係性がそこにはしっかりとあるようだった。未来への不信というものを知らない年代だったのだ。ほんの数年前のできごとなのに。

 ぼくは、座席につく。練習をしているのか奥のほうから思い思いの節が鳴っていた。楽器の音色もさまざまだった。それにも飽きてきょろきょろと知り合いでもいないかと目で探すと、早間と咲子の背中が見えた。ひとは背中でも個人を特定し、認識できるのだという事実に思い当たった。すると、あの楽器の音は、友人の誰かなのだと姿がなくても識別することも可能なのかもしれない。ぼくには、無理だったが。

 部屋は暗くなり、拍手で迎えられた。ぼくは、案の定、半分ほど、いやもっと多く、夢のなかにいた。バイトでの疲労が、最近、シフトを詰め込みすぎたせいかもしれないが、表面に出てきた。暗い場所で心地良い音楽が演奏されている状態で、そうならないでいることへの抵抗はとても困難だった。だが、目を覚ますと、途端に耳が釘付けになった。

 フルートを演奏する女性。体内に音楽の太古からの歴史があり、またいま産み出されている媒体になっているという躍動感が彼女にはあった。自分が得意とするものを見つけられた喜びのようでもあった。メロディーは飛翔して襲い掛かり、また地面を這ってぼくの足元に忍び寄ってきた。ひとつのパートが終わり、次の静かな場面に音楽は変わっていった。着実に物事はすすんでいくのだという音楽の展開がぼくには珍しかった。スピードは感じられないのだが、移り変わっていくことは鮮明になっている。それが三分や五分という短い間隔で終わるのではない。テレビに出る歌手たちとは違う。もっと長いものでひとを屈服させようとする意志さえ感じられた。

 音楽にも慣れてくると、いくつかの楽器の種類で構成されていることも分かる。分野があった。打楽器があり、管楽器があった。ヴァイオリンなどが群れとなって旋律を奏でる。作曲家が、そのどれかを取り除かれて曲を作らなければいけないとしたらどうなることだろう。それは、躍動も展開もなく、平面的な図に終わるだけなのかもしれない。立体的にこの室内を覆っている音楽たち。陸上競技で、こちらでは走り、ここでは投擲競技が行われているという無節操さではなかった。レストランの厨房でひとつの料理のために、さまざまなひとが関わっていることを思い出させた。それを最後に細身のウェイターが提供のために出てくる。そこで完成だ。

 また、いくつかのパートの特徴がぼくが三人の女性を思い出させる役目を負った。

 ユミは打楽器。シンバルは効果的に自分の存在を際立たせる。音の破裂がひとの注意をひく。彼女の陽気さ。派手な色合い。印象的な面白さ。どれも、ひとに、ぼくにインパクトを与えた。いくつかの太鼓も自分のテリトリーにひとの関心を向けさせつづけることに役立っていた。

 久代さんの繊細さ。柔軟さ。しとやかさ。彼女は弦楽器を思い出させた。感情を大きくは表さないが、しっとりとぼくに伝わってくる。優しさや高揚もそれは自然に、誰かを驚かすことなど意図することなく伝播する。

 それでは、いつみさんは管楽器になるのだろうか。ひとの声に、それはいちばん似ているのかもしれない。新しい場面になったことを象徴するファンファーレの役割もあった。感情は盛り上がり、どこかで沈んだり停滞したりする。そのひとつひとつが生きている。無駄に出される言葉がない。ぼくは多くの時間を眠ってしまったことを後悔していた。もっと、三人についての考察をつづけたかった。だが、音楽が終わり、ひとびとの安堵する声が漏れた。緊張の時間の連続性は終わったのだ。ひとの集中した注意を奪える時間には限りがある。ぼくの三人のことを考える時間もこれぐらいで終わらすのが妥当なのだろう。

 日曜を終わらすにはまだまだ時間が残っていた。結局、その後、早間と咲子に声もかけなければ、紗枝とも会うこともなかった。ひとりで午後の時間を太陽を浴び、歩いていた。さっきのメロディーが耳に残り口笛を吹いた。だが、もうその全体像を忘れてしまっている。それを再現することも不可能なことのように思えた。プールで横たわるあの日のいつみさんをもう一度、見つづけることができないように。とても、淋しい気もしたが、どこかでやはり当然なのだとも思っていた。連続と瞬間の狭間で立ち止まることもできない自分。作曲者は、もしあの曲が不満であったとしたら、それでも、どこの部分を気に入り、どこの部分を削り修正したいのだろうかとぼくは空想した。それは、ぼくのいまの問題でもあるようだった。引き出しに仕舞われた未完の自分の人生の決定権を、自分が行使する権利を有していることさえぼくは無視したかった。