Untrue Love(102)
ぼくは思いがけなく高校のときの先生に会った。ときどき、彼女は思い通りにならない生徒たちに癇癪をおこした。小学生のぼくの頬をたたいた男性教師には、どんな後味も恨みももたなかったが、このひとの甲走った声は、ぼくをいまでも不快にさせていることに気付かせてくれた。しかし、ぼくに会った彼女はぼくに対して好意的な感情に溢れているようだった。問題を起こさない地道な少年。彼女の感情の無駄な起伏に関与しなかった人間として。ならば、記憶の奥に追いやられてしまうような危険もあったが、彼女のなかでは意外にもしっかりと立場があるようだった。
「就職はどう?」
「決まりました」ぼくはそれから知らないだろうと思いながらも、ひとつの会社の名前を出した。
「しっかりとしたところね、安定している」
「そうですか」
「きちんと成長が見込める会社だと思うよ」その意見の裏打ちとして、彼女は夫の会社の話題をもちだした。ぼくは彼女に夫がいて、そのひとがどのような生活をして、ふたりでどのように暮らしていたかなど想像したこともなかった。そのために、彼女を覆っているいくつかの鎧のようなものが、ひとつひとつ剥がれていった。この機会には甲高い声を発する必要もない。落ち着いた安定している声を彼女はもっていることを今更ながら知った。だが、どこかでぼくには苦いコーヒーのように不快な舌触りも相変わらずのこっていた。
「そうだ、あの子ね」彼女は、ぼくの高校時代の交際相手の女性の名を出した。「まだ、会ってるの? とても、お似合いだったから」
「いえ、まだ、高校に通っているうちに別れてしまいました」
「それは、残念ね」
「でも、先生にもそういうことがばれていたんですね」
「隠してもいなかったでしょう? 交際にうるさいところでもなかったしね」
「隠してなかったです」でも、いまは不思議とその過去を隠したかった。いや、在ったことすら忘れてしまっていた。ぼくには、あれからとても好きなひとができて、と何なら打ち明けたかった。そういう思いすら浮かんでいた。しかし、自分の脳裏にあるのは複数の異なったタイプの女性だった。そのことを知ったら、彼女がぼくに抱いている好意は霧散してしまうかもしれない。反対に、ぼくがだまされているのだと更に好意の度合いを増し加えるのだろうか。空想しているうちに、彼女は何人かの同級生の名をあげた。ぼくでさえ、忘れてしまっている人物が含まれていた。教師という存在の偉大さとふところの深さをこの場で知った。ぼくらは普通に忘れるという段階を意図もせずにしつづける人間なのだ。それを受容することなく彼女はきちんと抵抗し、忘却する力をそぐ防波堤のようなものを作り、波の浸入を抑えた。ぼくらと、ぼくらに附属する思い出は、そこで水害を恐れることもなく生きていた。今後も生き延びるのだ。
「就職して、結婚して、いずれお父さんになって」彼女の視線はぼくの背中の方に向いていた。ぼくは彼女のイメージの防波堤内にいない限り、そこには倒産や離婚や病気までが首を並べて待っているような気がした。その単純な負の勢力を怖れた。そこに留まり、隔離されるのを希望するように彼女の発する甲高い声が、牧羊犬の役目を負うのを欲した。しかし、彼女にそのような義理や責任もない。たまたまぼくの過去の数年間を知っているだけなのだ。今後、ぼくが大きな功績か、大きな悪事を働かない限り、彼女はぼくの近況を知ることも不可能になるのだろう。ひとの交流というのは奇跡でもあり、同時にとてつもなく味気ないものだった。ぼくは、早間や紗枝も同じ範疇に入れてしまうのかもしれない。ましてや、彼らの結婚や子どものことなども知らないままで終わるのだろう。ぼくは、いったい誰の未来といっしょに過ごすことを望んでいるのだろう。ぼくの未来を誰に委ね、とくにどのひとりに知ってもらいたいと思っているのだろう。それは、第三者が似合うという表現を用いたからといって、反射的に決める相手ではなかった。ぼくが決めるものであり、もっと大きな力が有無を言わせず決定する事柄かもしれなかった。
そのうちに、ぼくらの話題は底を尽き、お互いの将来を健勝し別れた。
少し経ってから振り返っても、もう彼女の姿はどこにもない。不快だと思っていた彼女の声はぼくのなかで警報の合図となるようだった。危険を事前に察知してぼくに報せる。従うことによって、ぼくは安全さのなかにいられる。ぼくの会社の業績と将来性にも承認を与えた。ぼくは、また頭のなかに三人の女性を浮かべた。先生なら、そのうちの誰を気に入るのだろう。あの落ち着いた声をどのひとに用いてくれるのだろう。しかし、やはりそれもぼくが決めるべきことだった。先延ばしにして安易に楽しみ、あとで余計に苦しむことを知っていても、ぼくの数少ない経験と判断とを駆使して選択する問題だった。全員が防波堤のなかにとどまれる訳ではない。何人かはボートに乗ってぼくの世界から離れてしまう。あの先生のように。ぼくの過去の数年間だけを知っている存在になるのだ。ぼくにとっても相手にとっても貴重な無二の数年間になることをぼくは胸が痛むほど望んでいた。
ぼくは思いがけなく高校のときの先生に会った。ときどき、彼女は思い通りにならない生徒たちに癇癪をおこした。小学生のぼくの頬をたたいた男性教師には、どんな後味も恨みももたなかったが、このひとの甲走った声は、ぼくをいまでも不快にさせていることに気付かせてくれた。しかし、ぼくに会った彼女はぼくに対して好意的な感情に溢れているようだった。問題を起こさない地道な少年。彼女の感情の無駄な起伏に関与しなかった人間として。ならば、記憶の奥に追いやられてしまうような危険もあったが、彼女のなかでは意外にもしっかりと立場があるようだった。
「就職はどう?」
「決まりました」ぼくはそれから知らないだろうと思いながらも、ひとつの会社の名前を出した。
「しっかりとしたところね、安定している」
「そうですか」
「きちんと成長が見込める会社だと思うよ」その意見の裏打ちとして、彼女は夫の会社の話題をもちだした。ぼくは彼女に夫がいて、そのひとがどのような生活をして、ふたりでどのように暮らしていたかなど想像したこともなかった。そのために、彼女を覆っているいくつかの鎧のようなものが、ひとつひとつ剥がれていった。この機会には甲高い声を発する必要もない。落ち着いた安定している声を彼女はもっていることを今更ながら知った。だが、どこかでぼくには苦いコーヒーのように不快な舌触りも相変わらずのこっていた。
「そうだ、あの子ね」彼女は、ぼくの高校時代の交際相手の女性の名を出した。「まだ、会ってるの? とても、お似合いだったから」
「いえ、まだ、高校に通っているうちに別れてしまいました」
「それは、残念ね」
「でも、先生にもそういうことがばれていたんですね」
「隠してもいなかったでしょう? 交際にうるさいところでもなかったしね」
「隠してなかったです」でも、いまは不思議とその過去を隠したかった。いや、在ったことすら忘れてしまっていた。ぼくには、あれからとても好きなひとができて、と何なら打ち明けたかった。そういう思いすら浮かんでいた。しかし、自分の脳裏にあるのは複数の異なったタイプの女性だった。そのことを知ったら、彼女がぼくに抱いている好意は霧散してしまうかもしれない。反対に、ぼくがだまされているのだと更に好意の度合いを増し加えるのだろうか。空想しているうちに、彼女は何人かの同級生の名をあげた。ぼくでさえ、忘れてしまっている人物が含まれていた。教師という存在の偉大さとふところの深さをこの場で知った。ぼくらは普通に忘れるという段階を意図もせずにしつづける人間なのだ。それを受容することなく彼女はきちんと抵抗し、忘却する力をそぐ防波堤のようなものを作り、波の浸入を抑えた。ぼくらと、ぼくらに附属する思い出は、そこで水害を恐れることもなく生きていた。今後も生き延びるのだ。
「就職して、結婚して、いずれお父さんになって」彼女の視線はぼくの背中の方に向いていた。ぼくは彼女のイメージの防波堤内にいない限り、そこには倒産や離婚や病気までが首を並べて待っているような気がした。その単純な負の勢力を怖れた。そこに留まり、隔離されるのを希望するように彼女の発する甲高い声が、牧羊犬の役目を負うのを欲した。しかし、彼女にそのような義理や責任もない。たまたまぼくの過去の数年間を知っているだけなのだ。今後、ぼくが大きな功績か、大きな悪事を働かない限り、彼女はぼくの近況を知ることも不可能になるのだろう。ひとの交流というのは奇跡でもあり、同時にとてつもなく味気ないものだった。ぼくは、早間や紗枝も同じ範疇に入れてしまうのかもしれない。ましてや、彼らの結婚や子どものことなども知らないままで終わるのだろう。ぼくは、いったい誰の未来といっしょに過ごすことを望んでいるのだろう。ぼくの未来を誰に委ね、とくにどのひとりに知ってもらいたいと思っているのだろう。それは、第三者が似合うという表現を用いたからといって、反射的に決める相手ではなかった。ぼくが決めるものであり、もっと大きな力が有無を言わせず決定する事柄かもしれなかった。
そのうちに、ぼくらの話題は底を尽き、お互いの将来を健勝し別れた。
少し経ってから振り返っても、もう彼女の姿はどこにもない。不快だと思っていた彼女の声はぼくのなかで警報の合図となるようだった。危険を事前に察知してぼくに報せる。従うことによって、ぼくは安全さのなかにいられる。ぼくの会社の業績と将来性にも承認を与えた。ぼくは、また頭のなかに三人の女性を浮かべた。先生なら、そのうちの誰を気に入るのだろう。あの落ち着いた声をどのひとに用いてくれるのだろう。しかし、やはりそれもぼくが決めるべきことだった。先延ばしにして安易に楽しみ、あとで余計に苦しむことを知っていても、ぼくの数少ない経験と判断とを駆使して選択する問題だった。全員が防波堤のなかにとどまれる訳ではない。何人かはボートに乗ってぼくの世界から離れてしまう。あの先生のように。ぼくの過去の数年間だけを知っている存在になるのだ。ぼくにとっても相手にとっても貴重な無二の数年間になることをぼくは胸が痛むほど望んでいた。