Untrue Love(98)
そして、一つの希望する会社を選んだ。あるいは、選ばれた。内定が決まった。今後が決まった。
ぼくは、その事実を最初にユミに告げた。彼女に切ってもらった髪形に恩恵を感じていたからだろう。彼女は当然、喜んでくれた。ところが、それを自分の手柄だとはまったく思っていなかった。ただ、ぼくの二十数年が報われたことを単純に祝福してくれた。
この瞬間にぼくの生活が大幅に変わるには時期尚早であった。まだまだ学生という身分にぶら下っている。母の胎内に未練がある子どものように、ぼくもそこを去るのは名残惜しかった。早間も紗枝も同じように職場を決めた。年下の咲子にはまだ時間があった。ぼくの両親も喜び、多分、咲子のときはもっと喜ぶかもしれないと考えた。しかし、彼女がここで就職先を探すのか、地元に戻るのかも分からなかった。まだ考えは固まっていないのかもしれない。いや、こころの奥できちんと氷室のような場所で、外部で必要になるときまで温存しているのだろうか。自分の子どもへの責任は永続するため軽く、親類の子は責任にも期間が限定されるので集約され、より重いともいえた。だから咲子の未来も両親はぼく以上に心配していた。
そう思いながらもぼくの責任や及ぼす力は限定されている。それでいくらか晴れ々れとした気持ちでユミと歩いていた。
「大人になったら、大人らしい社会人らしい格好をしないとね。なんかプレゼントしてあげる」彼女はそう言うと、革製品を売っているコーナーに入った。結局は財布とベルトと、名刺入れと小さな靴ベラを買ってくれた。それは永久性をもたないかもしれないが何年間かはきちんと役に立つものだった。ぼくが社会人となる通行手形として持っていないものの数々。そして、永続するという観念がぼく自身には芽生えていなかった。
「ありがとう。ユミは、きちんと毎日、働いて偉いね」
「好きなことだからね。で、どんな仕事? もっと具体的に教えてよ」
「コピー機とか電気部品を紹介して、説明して、売り捌く」ぼくも具体的なことをすべて掴んでいる訳ではなかった。
「そんな簡単に行かないかもよ。理不尽なことを言われて、謝って、ストレスためて」
「あるの? ユミも」
「あるけど、好きなことだからね」彼女はけろっとしていた。ぼくは身なりにそれほど拘泥していなかったので、多少のずれなど問題にはならないが、女性の髪形は見栄えを根本的に左右し、それが自分の意図に合わなければ大問題に発展するべき事柄のひとつだろう。それを自分の技によって、よりよいものとして、さらに悪いものを封じ込める。それは手抜きのできない時間の連続に思えた。だが、この日のぼくらはお互いがのびのびとしていた。緊張感の欠けらもない午後のひととき。
「なんか、食べよう」
「仕事したら、もうあの町に来なくなるんだね。バイトもないし、用もないし」ピザを食べながら、口に入ったものが熱そうな表情をしてユミが言った。
「忙しくなるからね。町もある日、大幅に変化しているかもしれない。あっと思う間に」
「髪がぼさぼさだった順平くんがなつかしいね」
「いつか、一本もなくなってハゲになるから」そういう状態になってしまったかのようにぼくは左の手の平で髪を確認した。
「まだ、あるよ。安心して。でもね、そうなるとわたしが困る。お手上げ。仕事ができないからね」
ぼくらふたりは傍目から見れば順調すぎるほど順調に関係を育んでいる仲に映っていることだろう。あの町が出会わせてくれた女性であり、きっかけも作り、栄養も与えてくれた町だった。ぼくはその場所と疎遠になるのかもしれない。いずれ。遠くない先に。だが、ぼくはいつになってもあそこを歩くたびにユミを思い出す。さらに同じように、いつみさんの幻影があり、木下さんの痕跡もとどまるはずだ。
その後で、ユミが見たがっていた映画を見た。カラフルな映像と雨に塗れたきれいな石畳が印象にのこる映画だった。ぼくは、もしその映画を見たときに言うであろう木下さんの感想を勝手に想像していた。
ぼくに荷物もあるということで結局はしめくくりにぼくのアパートへ行くことになった。留守番電話の録音を告げる部分が明滅していた。珍しいことだった。だが、ぼくはそれを敢えて無視する。機械にそれほど敏感ではないユミは気付きもしないようだった。
ぼくらはベッドで寝そべっている。彼女のつけているぼくには銘柄も分からない香水のにおいが横にあることで、ぼくは安心していた。それと同時にどこかでいつものにおいと違うという抵抗したがる気持ちも反応として起こった。言葉が沈黙を破る。
「今度は、新入社員という髪型にしてあげるね」その前触れとして彼女は指先でぼくの髪の毛の先をつまんだ。「そして、たくさん稼いで、それからは、きちんとわたしのお店で切ってね」と、最後にユミは言った。立場の変化がそこには認められるような気がしていた。「そうすれば、あの町も忘れ去られないでいるから。でも、わたしが働く店が変わったら同じか」何が楽しいのかひとりで彼女は笑った。ユミの笑い声も静けさを壊すのに堂々と値するものだった。
そして、一つの希望する会社を選んだ。あるいは、選ばれた。内定が決まった。今後が決まった。
ぼくは、その事実を最初にユミに告げた。彼女に切ってもらった髪形に恩恵を感じていたからだろう。彼女は当然、喜んでくれた。ところが、それを自分の手柄だとはまったく思っていなかった。ただ、ぼくの二十数年が報われたことを単純に祝福してくれた。
この瞬間にぼくの生活が大幅に変わるには時期尚早であった。まだまだ学生という身分にぶら下っている。母の胎内に未練がある子どものように、ぼくもそこを去るのは名残惜しかった。早間も紗枝も同じように職場を決めた。年下の咲子にはまだ時間があった。ぼくの両親も喜び、多分、咲子のときはもっと喜ぶかもしれないと考えた。しかし、彼女がここで就職先を探すのか、地元に戻るのかも分からなかった。まだ考えは固まっていないのかもしれない。いや、こころの奥できちんと氷室のような場所で、外部で必要になるときまで温存しているのだろうか。自分の子どもへの責任は永続するため軽く、親類の子は責任にも期間が限定されるので集約され、より重いともいえた。だから咲子の未来も両親はぼく以上に心配していた。
そう思いながらもぼくの責任や及ぼす力は限定されている。それでいくらか晴れ々れとした気持ちでユミと歩いていた。
「大人になったら、大人らしい社会人らしい格好をしないとね。なんかプレゼントしてあげる」彼女はそう言うと、革製品を売っているコーナーに入った。結局は財布とベルトと、名刺入れと小さな靴ベラを買ってくれた。それは永久性をもたないかもしれないが何年間かはきちんと役に立つものだった。ぼくが社会人となる通行手形として持っていないものの数々。そして、永続するという観念がぼく自身には芽生えていなかった。
「ありがとう。ユミは、きちんと毎日、働いて偉いね」
「好きなことだからね。で、どんな仕事? もっと具体的に教えてよ」
「コピー機とか電気部品を紹介して、説明して、売り捌く」ぼくも具体的なことをすべて掴んでいる訳ではなかった。
「そんな簡単に行かないかもよ。理不尽なことを言われて、謝って、ストレスためて」
「あるの? ユミも」
「あるけど、好きなことだからね」彼女はけろっとしていた。ぼくは身なりにそれほど拘泥していなかったので、多少のずれなど問題にはならないが、女性の髪形は見栄えを根本的に左右し、それが自分の意図に合わなければ大問題に発展するべき事柄のひとつだろう。それを自分の技によって、よりよいものとして、さらに悪いものを封じ込める。それは手抜きのできない時間の連続に思えた。だが、この日のぼくらはお互いがのびのびとしていた。緊張感の欠けらもない午後のひととき。
「なんか、食べよう」
「仕事したら、もうあの町に来なくなるんだね。バイトもないし、用もないし」ピザを食べながら、口に入ったものが熱そうな表情をしてユミが言った。
「忙しくなるからね。町もある日、大幅に変化しているかもしれない。あっと思う間に」
「髪がぼさぼさだった順平くんがなつかしいね」
「いつか、一本もなくなってハゲになるから」そういう状態になってしまったかのようにぼくは左の手の平で髪を確認した。
「まだ、あるよ。安心して。でもね、そうなるとわたしが困る。お手上げ。仕事ができないからね」
ぼくらふたりは傍目から見れば順調すぎるほど順調に関係を育んでいる仲に映っていることだろう。あの町が出会わせてくれた女性であり、きっかけも作り、栄養も与えてくれた町だった。ぼくはその場所と疎遠になるのかもしれない。いずれ。遠くない先に。だが、ぼくはいつになってもあそこを歩くたびにユミを思い出す。さらに同じように、いつみさんの幻影があり、木下さんの痕跡もとどまるはずだ。
その後で、ユミが見たがっていた映画を見た。カラフルな映像と雨に塗れたきれいな石畳が印象にのこる映画だった。ぼくは、もしその映画を見たときに言うであろう木下さんの感想を勝手に想像していた。
ぼくに荷物もあるということで結局はしめくくりにぼくのアパートへ行くことになった。留守番電話の録音を告げる部分が明滅していた。珍しいことだった。だが、ぼくはそれを敢えて無視する。機械にそれほど敏感ではないユミは気付きもしないようだった。
ぼくらはベッドで寝そべっている。彼女のつけているぼくには銘柄も分からない香水のにおいが横にあることで、ぼくは安心していた。それと同時にどこかでいつものにおいと違うという抵抗したがる気持ちも反応として起こった。言葉が沈黙を破る。
「今度は、新入社員という髪型にしてあげるね」その前触れとして彼女は指先でぼくの髪の毛の先をつまんだ。「そして、たくさん稼いで、それからは、きちんとわたしのお店で切ってね」と、最後にユミは言った。立場の変化がそこには認められるような気がしていた。「そうすれば、あの町も忘れ去られないでいるから。でも、わたしが働く店が変わったら同じか」何が楽しいのかひとりで彼女は笑った。ユミの笑い声も静けさを壊すのに堂々と値するものだった。