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Untrue Love(97)

2013年01月23日 | Untrue Love
Untrue Love(97)

「これが、就職の面接用の髪型。ちょっと短く切り過ぎたかな」ユミは手を止め、少し離れた距離で遠目からぼくの姿を見つめた。「大丈夫、似合ってる。とても」

 ぼくもユミの視線のなかにあるものを確認するため鏡をのぞいた。

「こんなもんかな、素材がこれじゃ。これで、世間をだます共犯者になった。ユミも」
「違うよ。順平くんのありのままであればいいんだから」

 ありのままの自分が社会のはみだしものになるのか、好青年と映るのかの正確な解答はなかった。だが、好意的な意味合いであるのはユミの口調が示していた。
「でも、これで、外見の準備が一式、揃ったことになるな」

 ぼくは壁際に吊るしてある親のすねをかじって購入してもらった真新しいスーツをながめた。それを着た自分はやはりありのままとはいえないような気がしていた。ありのままなら、汚いスニーカーを履き、重い荷物を運んでいる姿の方が感じとしては正しかった。

「頭、洗う? チクチクするでしょう。洗ってくれば」それはぼくの家だった。私設美容師。床に散らかった髪を彼女はコンセントを壁に突っ込み掃除機で吸った。そのついでに部屋の別の部分にもノズルを向けた。通り道にある邪魔になっていた雑誌を持ち上げ、服もたたんだ。自分の服にも髪の毛がついていたのか足元に吸い口の先端を向けると、スカートの裾がいきおいでめくれてしまった。

 ぼくは洗濯機に脱いだ服を投げ込み、シャワーを浴びた。自分の運命を決めるのに、髪を切り、服を選ぶ自分に当惑していた。それはこの状態に変化が及ぶことへのかすかな抵抗のような気持ちが前面に立っているからに思えた。変化の到来は、何かを手放すことになることを確実に意味していて、得るものより喪失の分量が比較すれば多い予感もあった。だが、順当に前へすすむことへの期待と憧れも存分にあった。ぼくは二十代の前半なのだ。厭世的になるにはエネルギーが余り過ぎていた。

 髪を拭き、部屋に戻る。ユミはジュースを飲み、テレビを見ていた。ぼくは冷蔵庫に数本だけのこっていた缶のビールを開けた。もう数年もすれば、この環境も変わる。もっと時間がなくなり、髪も別の誰かが切っているのかもしれない。しかし、この現在の場は確かに幸福と呼べた。

「洗うの楽になった? 簡単に髪も乾くと思うよ」

 ぼくは犬のように首を振って乾かす真似をした。ユミは切ってはくれたが、セットまでは関心がないようだった。テレビのなかの女優の美容法を興味ある視線で見つめていた。ぼくは一度も会うこともない女性を身近に感じることが難しかった。それより、ユミやいつみさんや久代さんの肉眼で眺められる肉体を好ましく感じていた。ブラウン管も白い幕も映写機も通さない実在の身体。疲れ、喜び、泣く身体。直ぐ届きそうな手先にある身体。

 ぼくはベッドの端にすわった。ユミはそれを背にしてひざを伸ばしていた。
「咲子ちゃん、この前、店に来てくれたよ」
「そうか、お得意さんなんだ。忘れてた」
「うん。バイトしてるお店に男のひとに興味がある男のひとが調理をしているんだって?」
「そんなことまで話すんだ」ぼくは咲子の無口な部分に全幅の信頼を寄せていた。それはぼくに対してだけで、ユミや早間に向かったときは違う面を表す可能性を疑ってもいなかった。ぼく自身が三人の女性に対してそれぞれ少しだけだが違ったパーソナルに変化することに気付いていながらも。

「話すよ。黙ってすわっているのって苦痛でしょう? でも、そういうのって、どうなんだろうね。棒同士」

 ぼくはビールを吹き出しそうになる。それで話題が転換された。咲子はぼくがその男性の姉である店のいつみさんに好意をもっていることを知っている。そして、ユミとぼくの部屋で会っていることも知っているはずだ。実際に以前に見られたことがある。そのユミにいつみさんのことまで話すことはないだろうという漠然とした安心感があった。分別がある人間は危険な状態を自ら作らないのだ。すると、ぼくには分別も見境もないことが立証される。

「ユミがいて良かったよ。女性を愛せて良かったよ」
「いっぱい好きなくせに」

 自分のことをいっぱいか、女性という人類の半分の存在に対してのいっぱいの意味か? 複数の受け止め方がある。
「そんなでもないよ」
「面接のときは、もっとていねいにひげも剃らないと駄目だよ」彼女は二本の指でぼくのあごを撫でた。「たくさん稼いで、女性もいっぱい好きになって」

 だが、この日はユミだけなのだ。

 それから、複数の会社の入社試験を受け、いくつかの会社で人事の担当者と面接をした。緊張と手さぐりと、不本意と後悔と負け惜しみの時間の連続のようだった。しかし、なにかの基準や経験に照らし合わせるにせよ、ぼくの何かを見極めなければならないのだ、彼らも。そして、炙られるようにぼくの欠点が浮き上がり、となりにいる誰かの優れた面に負けることを知る。ぼくは夜中に夢を見る。三つの会社があった。そこでの面接官はいつみさんと、木下さんとユミだった。三人とも総じてぼくに対する評価が甘く、ユミにいたってはぼくの髪型を先ずほめた。それぞれが当社を選んだ理由や目的をたずねた。ぼくは言いよどむこともなく、すらすらと回答が口先にのぼる。みな、安堵した表情になった。だが、ぼくは満足ばかりではいられなかった。もし仮に三つとも受かってしまったら、一体どこをぼくは選ぶのだろうと目が覚めても困惑していた。
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