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Untrue Love(93)

2013年01月13日 | Untrue Love
Untrue Love(93)

 他人の視線の範疇にいる自分。神という概念でもあれば、その範疇は無限大に広まる。そして、行いを抑制する。抑止する。反対に喜ばしいことをしようと心掛ける。自分はいったい誰に知られているのか? その範囲が分からなかった。酔った自分はもっと知らないし、理性も歯止めをかけない。だが、この町でぼくのことを知っているひとが確かにいたのだ。

「この前、女のひとと歩いていなかった? 駅の向こうでね?」木下さんはそう言った。ぼくは、ふたりの女性を思い浮かべる。ユミかいつみさんのどちらかだ。
「いつのことですか?」
「あの暑かった夜。ふたりとも気分良さそうにしてたよ」

 ぼくはプールと太陽でほてった身体をビールの力によって内部から冷やそうとしていたのだ。内側もその効果を受けることもなく、身体も余計に熱を発していた。だが、いつみさんといた状況だけは確かめられた。ぼくは、そこで対策として時間を稼がなければならない。数秒でも多く。

「久代さんは、そこで何をしていたんですか?」
「友だちに誘われて、男のひともふたり交えて4人で飲んでた」
「なんだ、楽しそうですね。良いひとたちだったんですか?」
「わたしのことはいいのよ。あれ、誰なの? きれいだったよ」
「声をかけてくれれば良かったのに」ぼくらは恋心を通しては無関係であるということを暗に伝えようとしているようだ。「咲子がバイトをしているところの、お店のひとでしょう、そのひとなら。とても、お世話になっているから」

 自分は、嘘とは無縁であることを望んでいた。ここでも、嘘は言っていない。真実をすべて伝えていないというだけだ。
「久代さん、水臭いな。声をかけてくれれば良かったのに」再度、同じことを口にした。
「こっちもグループだったから、なんとなくね」彼女はぼくの発した言葉の重さを考えているような表情をした。「わざわざ、そこから離れて行くのも、なんだしね。でも、バイト先って、お店なんでしょう。今度、連れて行ってよ」
「あんまり、良いところじゃないんですよ」
「咲子さんが働いているのに?」
「そう。ぼったくることを目的にしている場所」ぼくは、その機会を揉み消すことだけが念頭にあった。それで幼稚な発言と承知しながら、それからも店の評判を落とすようなことを言い続けた。
「もう、やめにしなよ。逆に興味が湧いてくる・・・」

 疑いを完全に晴らすことはできない。それでも、ぼくは、この町の住人であることを容認されたような気持ちを同時に受けていた。ぼくを知っているひとがいるのだ。その人数が増えていくのだ。そこで危ないことはできず、視線の数を正確に把握することもできない。ぼくも同じような視線を誰かに向ける。だが、ぼくは久代さんのことに気付きもしなかった。そこのふたりの男性に嫉妬することもできず、責める材料も手に入れていない。ぼくは一方的に証拠を握られているのだ。そもそも、久代さんは自由の身だ。ぼくは責める資格なども有していない。

「楽しかったですか?」
「まあまあね。でも、ああいう場所で、一回だけ会ったひとのこと、きちんと理解できる?」
「できないです。でも雰囲気とか感触とか、手応えとか・・」ぼくは、しかし、最近、未知なる異性とそういう場で触れ合ってもいなかった。「もう一回、会いたくなったとか?」
「それは、向こうの出方でしょう?」彼女は今後の成り行きを想像している様子に変わった。「そうじゃない、順平くん」

 それは、ぼくの出方のようにも思えた。別の女性の存在を公表し、謝罪し、ひとりにするという決意を打ち明ければ、関係性は次の段階に行くのだ。だが、やはり、ぼくはあのプールという場所で自然にいられた自分の姿も手放したくないと思っていた。ふたりは何杯ものビールで酔い、明日もあさってもないという無邪気な少年や少女のような気持ちで互いを求めていた。駅の向こうで。高架をくぐり抜けただけの場所で。

「4人が、ふたりになる、次回は。半分。誘われるでしょう」その機会を防ぐことができる。いや、防御はきかない。ぼくに権利はない。権利がないひとは無駄に実行もしない。だから、ぼくはみすみす逃れるものを見届けるだけなのだ。
「誘われるか、かける?」
「自分の大事なことですよ」ぼくは彼女が茶目っ気を出したことに驚いている。「でも、なにを?」
「誘われたら、そこで終わり。終了」彼女はなにかを考えている。彼女の父は幼少期の久代さんのこの顔を見て、プレゼントを渡してきたのかもしれないとぼくは思った。「誘われなかったら、悲しむわたしを咲子さんのお店に連れて行ってよ。どう?」
「むずかしいですね」ぼくは、その言葉がどこにかかるのか、またどれぐらいの比重なのか計ろうとした。でも、やはり、ごまかしたり、時間を延ばすことが当面の目的だった。「誘われるっていうのは、でも、一回ですよね。継続をするか、しないかが大きな問題だと思いますけどね」

「ずっと、続いてほしいの?」と、彼女はまじめな顔をつくって言ったが、直ぐに笑いに化けた。その早変わりにぼくは抵抗を感じる。いや、感じようとした。「もう、疲れたね。うちに行って飲みなおす。来る?」

 明日、彼女の仕事は休みだ。ぼくは、何の約束もしていない。賭けの有無もうやむやにした。それを幸福な状態だと定義しようとした。久代さんはいつか幸福になるべき存在なのだ。その足がかりとして、素敵な男性があらわれる。嘘をつくこともしない、正義感にあふれた人間。ぼくは、やはりその吊られた服に袖を通すことはしないだろう。いや、試着はするのだ。ずっと、試着だけをくりかえすのだ。車の試運転かもしれない。また、店に戻し、ぼくは対価を支払わない。そこに正義も、本当の意味での愛着も起こり得るはずがなかった。ただ、久代さんの寛いだ姿や格好を楽しんでいただけなのだ。夜の過ごし方としては、とても、素晴らしいことに間違いはなかったのだが。