爪の先まで神経細やか

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Untrue Love(96)

2013年01月20日 | Untrue Love
Untrue Love(96)

「キャッチボールでもしようっか?」

 いつみさんの初恋の場所。風がない土手。ぼくらは近くにあったどう生計をたてているか分からないひなびたおもちゃ屋に寄り、ビニール製のカラーボールを買った。それがぼくらの間を行き交っている。意志や性格をもつように。

 いつみさんの胸元にボールが飛び込み、ぼくの身体にボールが忍び込む。それは相手への愛情がひそんでいるようでもあった。そして、素直にこの状態を楽しんでいた。何度かに一度はボールが逸れ、それを拾いに行く。失うわけではないが、自分から遠退いてしまう。また手に入れ、それを投げる。彼女もこぼす。そして、大事なもののように両手で包み、また投げた。数メートル先にいる彼女はぼくにとって客観的な存在であるようだった。しかし、やはり他人であるわけでもない。愛情の対象なのだ。その存在が動いている。歓声が聞こえ、ぼくを誉めなりなじったりした。そのひとつひとつが幸福の積み重ねの層だった。

 それにも飽きて、また土手の斜面に座った。彼女の若い時代の話を聞く。いまでも若い。まだ二十代の半ばだ。それより十年ほどまえの彼女。ぼくが絶対に見ることがないいつみさん。過去のいつみさん。まだうぶでフレッシュないつみさん。そのときにぼくは彼女と会っていたら、好きになっていたのだろうか? 同じ年頃で。しかし、それはどうやっても不可能だった。ぼくらは違う場所に住み、ぼくはまだ小学生だ。誰かを熱烈に愛する意味も意図も知らない。それより、釣竿が欲しかったのかもしれない。ルアーのコレクションの方が楽しかった。しかし、いまのアパートにはひとつもなかった。ぼくは別人になってしまったのだろうか。

 そうするといつみさんも別人だ。化粧の方法も覚え、お酒も飲む。二日酔いに苦しむ。それらを並べると大人の楽しみというものがすべて無駄でできあがっているようにも思えた。だが、愛し合えた。ときには傷つけるような言動を抑え込む努力もしなければならないが、大切にされ必要とされる機会にも恵まれた。彼女は、十五歳ではないのだから。

 さらに空想は十年後になる。ぼくは三十になり、彼女は三十代の半ばだ。どのような魅力を彼女は身につけ、反対になにを失ってしまうのだろう。月日は、ぼくからなにを奪うのだろう? こういう何気ない平和な一日か。キャッチボールを楽しむ生活か。ぼくは小さな存在とそれをするのかもしれない。母となるひとは弁当をつくってくれる。そして、この土手にいる。いるとしたら、いつみさんなのだろうか? ここで、彼女の二十年の生活が報われる。祝福を受ける。

「友だちと、誰のことが好きかここで打ち明けあった。なんで、あんなことをしてたんだろうね? いま、大人になってする? それで、きゃっきゃとはしゃいだりする?」
「さすがに、しませんよね」
「いつから、しなくなったんだろう」彼女の目の前には川が静かに流れている。それはもう流れではなかった。大きな水溜りのようにひっそりとしていた。たまに鳥が飛んで、鳴き声を静けさに耐えられないかのように響かせた。この前のクラシックコンサートで幕間に咳払いをしていたひとたちをぼくは思い出した。いつみさんは管楽器だったのだ。クラリネットのような美声。だが、考え事に戻ったのか、また黙った。

「大人は打ち明ける前に、もう行動していますよね」
「そうか? そうだね」
「キヨシさんはぼくのこと知らないんですかね?」
「まさか。全部、分かるだろう。顔に書いてるという表現もあるぐらいだから」

 ならば、そこで週に一度だけだがバイトをしている咲子も知っている。ぼくは、それを裏切っていることは隠している。だが、ボールを失い、転がって川に流されてしまうこと以上にこの関係が大切で、重要であることも理解していた。それは段々と深みに入ってしまっていた。同じようにユミのボールがあり、木下さんのボールもあった。数回という段階ではない。関係はどんどんと伸びて行った。いずれ、自分も相手も傷つけるような恐れがあった。それは恐れではない。確信の手前でもあるようだった。ぼくはいつみさんの現在を手に入れ、過去の思い出話も知っていた。さらには、未来を予測することもできた。キャッチボールをする親子。それに付き添う母。それは、いつみさんに相応しい役目のように思えた。父の役柄は自分以外の誰にも渡したくないとも思っていた。誓いにも考えとしては似ていた。誓いの近似値。

 いつみさんはボールをバッグにしまった。それから、お尻をはらい、立ち上がった。そのボールの存在はいつか忘れてしまうのかもしれない。ぼくのルアーのように。だが、この日の彼女はずっとぼくに刻み付けられていくのだろう。髪を切ったり、爪を研いだり、ひげを剃って自分の一部を日々、処分しようとしても、この日のいつみさんは確実にのこる。ぼくはそのことを知っていた。十年後の彼女を見守りつづけていることは、だが、確約がない。それを固定するためには宣言の言葉が必要だった。顔に書いてある、とさっきいつみさんは行った。愛というのは言葉で成文化できるものなのだろうか。好きな子を伝え合う幼少期の感情と離れてしまった人間にはもっと重みのある言葉が迫られているようだ。ぼくらはボールを買ったおもちゃ屋の前をまた通った。ほかにお客はいなかった。ボールがひとつ売れ、それはいつみさんとぼくの関係を深めてくれたようだった。また、深度はさらに発展する。十年前には知らなかった行動がぼくに喜びを与えてくれる。その源がいつみさんである。そして、原動力もいつみさんであった。