爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(100)

2013年01月26日 | Untrue Love

Untrue Love(100)

 木下さんから借りた本に夢中になり、時間が過ぎるのも忘れ、いつもなら眠っている時間だが、止められずにいると、しんとした空気を打ち破るように電話が鳴った。ぼくは驚いてそちらに視線を向けた。緊急な用件かと思い受話器を取ると、いつみさんの声がした。

「仕事、どうだった?」彼女は問いに対する答えを焦って待ち構えているようだった。
「言ってたところに、決まりました」
「なんだよ、早く教えろよ。明日、店に来なよ。キヨシに何か作らせるから」

 それで、翌日、ぼくはバイトを終えた後にそこに寄った。いつみさんと親しい関係ができてからはあまり寄り付かずにいたので久し振りでもあった。

「お。めずらしいな。たまには顔を見せろよ。今日は、腕によりをかけて作ってあげるから」キヨシさんが厨房から顔を出して、そう告げた。何か珍しいことが起こったのかと興味がありそうな目を常連さんたちがぼくに向けた。だが、黙ってぼくはいちばん端の席におとなしく座る。

 普段のメニューにはない料理のレパートリーがぼくの目の前のテーブルに並べられる。これも常連さんは横目で見て、うらやましがったり、自分にも要望したりしたが、キヨシさんがなんとかうまくかわしていた。いつみさんも、「この子、就職が決まったのよ」と小さな声で触れ回った。もともと人数がたくさん入るような店でもないので、そこにいる全員がぼくの将来を知った。ぼくは背中でその視線を浴びながらひとり黙々と料理を食べた。

「うまいだろう?」キヨシさんの手が空き、表にでてきた。「試作品。順平くんの顔色を見て、レギュラーにするかどうか決める」
「感想はいらない?」
「いらないよ。笑顔で分かる。いや、いつみに対しての笑顔か」彼は自分の姉の顔をみた。いつみさんは知らん振りを決める。

 話は仕事のことになり、ぼくがその道にうまく合流できるかいつみさんは心配していた。
「ネクタイとか結べるの?」
「それは、結べますよ。面接とかも行ったし、それで注意されたこともない」
「そうか。でも、試しに見せてみな」彼女はそう言うと、常連さんのひとりの首に巻かれているネクタイを外させた。それをぼくに手渡した。周囲の監視のなかで、ぼくは襟のないシャツの上にネクタイを結ぶ。

「どうですか?」
「まあまあだけど。でも、その1種類?」
「まあ、一先ずは・・・」
「ネクタイを巻く方法なんか、何種類も、幾通りもあるんだよ。女性を喜ばせるのと同じで」

 ぼくはネクタイを緩め、また彼女に手渡した。彼女は持ち主の常連さんに戦利品のように差し出した。それを受け取るときに耳に入ったであろう「女性を喜ばせる方法もたくさん覚えなきゃな」と彼は酔った声で言った。それを聞いた店内の全員が笑った。そして、ぼくは顔が赤くなるのが自分でも分かった。ばれてしまうのが恥ずかしかったので、またひとりでグラスを静かに傾けた。すると、徐々に店内のお客さんが入れ替わったので、ぼくの恥辱感も同じように店外に救出できた。だが、さっきの常連さんはお会計が終わると、ぼくの背中を叩いて、「頑張れよな」と小声で言った。ぼくは愛想よく笑って、ネクタイを結ぶしぐさをした。

 閉店になると、ぼくはいつみさんといっしょに店を出た。キヨシさんにはたっぷりとお礼をして。彼は何事もなかったかのようにいつも通りの表情で送り出してくれた。
 それから、ぼくはいつみさんの部屋に寄った。テーブルの上には包装されリボンがつけられた長細いものが置かれていた。

「それ、昼に買ってきた」いつみさんはテーブルのものを指差した。
「何ですか?」
「開けてみなよ」ぼくは紙を破る。なかからピンク色の派手なネクタイがでてきた。
「ありがとう。でも、少し、派手じゃないですかね」
「そうでもないよ。でも、そういうの選んでいる自分って、気恥ずかしいものだったよ」
「ありがとう。たくさん、結び方も習わないと、学ばないと」
「そのうちにできるよ」
「女性を喜ばせる方法も学ばないと」彼女はその言葉に応じて笑った。それから一旦消え、冷蔵庫からビールを出した。そして、缶をふたつ開け、片方を差し出した。
「恥ずかしい思いをさせてごめん。あんなにみんなが注目していると思わなかったから」
「いいえ、いいんですよ。でも、ぼくって、なんか、そういう面で下手ですかね?」いつみさんは照れたように笑ってうつむいた。
「下手じゃないよ。相性もあるしね。それにわたしも乾いていないし」

 ぼくはその言葉を聞かなかったように新品のネクタイを鏡のまえで胸のところにかざした。彼女はその後方を横切り音楽をかけにいった。静かにバラードが流れる。記念日みたいなものを日付として祝うが、ぼくはこの日が何日か何曜日かも覚えていない。ただ、大人になった証しとしてこの瞬間を覚えていた。彼女はまたぼくの視線に入り、ぼくの後ろから抱きついた。

「下手じゃないよ」とまた言った。言えば言うほど、その地点から程遠い自分がいるみたいだった。お母さんが息子のひざの傷口をみて、痛くないと慰めるみたいに。この信頼する母が痛くないというからには、痛みの一端は消滅するのだ。あとは気持ちの問題なのだ。

 ぼくは振り返る。自分はこのような生活を送っていた。甘やかされた駄々っ子は社会を自分の立脚点として生きる底意地みたいなものをつかめるのだろうか。ネクタイではなく、いつみさんの腕がぼくの首にまわる。からみついて、そこから逃げられない。逃げるなどという気持ちも毛頭なかったのだが。
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