Untrue Love(92)
「わたしの水着姿を見せてあげるよ」と、いつみさんがわざと照れ隠しのような口調で露悪的にそう言った。そして、西新宿にあるホテルの名前を告げた。ぼくは、そんな場所があることなども知らなかった。
「高いんでしょう? いっしょに行くのは、ぼくでいいの?」説明もなく、急な展開に戸惑っていた。
「プレゼントで予約してもらったの。それで、友だちと行くって言ったから。ふたりで。友だちじゃないか、いや、友だちか」
ぼくはプレゼントをした側が誰なのだろうかと考えていた。だが、深入りする権利がぼくにあるとも思えなかった。友だちだから。しかし、キャンセルした誰かの存在もうかがえた。
「なんか決まりがあるんですかね、庶民には分からないような」
「ないよ、水着さえあれば。行くんだろう? 苦学生くん。たまにはバイトと勉強だけのむなしい生活から離れてさ」
「行きますよ。でも、その表現、古すぎますよ」
「古くできてるんだよ」
それで、ぼくは寝そべり上空にある太陽をサングラスで隠していた。世界というのは限りなく快適な場所に思えた。横にはいつみさんがいた。目をきょろきょろさせて、あたりを見回している。それから、青い色の飲み物を飲んでいた。いつも、蛍光灯のしたに彼女はいた。最近では外で会うことも多くなったが、最初の印象が強いせいか、概ね室内の煙る場所のなかにいるのが似合うタイプだと感じてしまっていた。
「喧騒から逃れるって、こういうことを言うんだね」いつみさんはそう言ったが、喧騒を懐かしんでいるようでもあった。主な自分の居場所はあそこなのだと知っているように。でも、ぼくは違う場所にいて馴染もうと努力している彼女を、美しい存在だと認めていた。
「市民プールとは、さすがに違いますね」
「笛を吹かれ、直ぐに注意される。まだ、順平くん、行くの?」
「いかないですよ。それに美しい水着も水着姿もないし」
彼女は自分の胸のあたりを見下ろす。自分で宣言したわりには自信もないようであった。女性を主張するような身体ではなく、アフリカの短距離を駆け抜けることに向く動物のようなしなやかなラインだった。
「なんだか、リッチとか、ゴージャスな身体じゃないね」と自己表現をした。しかし、その容貌こそがぼくはいつみさん自身なのだと決めていた。認定という感覚に近い。もっと、女性っぽかったり、よそよそしかったり、高慢だったりすれば、彼女の良さは立ち消えになる。魅力もしぼんでしまう。「それに比べて、肉体を酷使している身体をしてるよ、順平くん。ほれぼれする」
「わざと、古臭い表現をつかってるんですか?」
「どこがだよ」
「ただ、若いだけですよ。でも、もっと、数年前なら、もっと鍛えられてたと思うけど」
「自信家。苦学生の自信家」
そう言われながらも、ぼくは空想にも甘んじる。彼女は別の誰かとここに来る予定だったのだ。それが突然にキャンセルになり、腹いせのためにぼくをだしに使う。あり得ない話でもない。だが、彼女はこのひとときも、とても楽しんでいたので、その空想自体が証明不可能になる。また、証明する必要もまったくない。世界は甘美な場所で、喧騒から隔絶されているのだから。
「咲子ちゃんが働いてくれると、わたしが遊べる。だから、あんまり会うこともできないんだけど、この前、店に大事な忘れ物があったので、休みの日に行ったから、彼女がいてね、なんだか、とても、大人になったのね。知ってた?」
「さあ。どこら辺がですか?」
「なんだか、垢抜けたんだよ。これも、古臭いか?」
「田舎から上京したことも見抜けないぐらい?」
「そうだね。ああいう素朴な可愛さがある子が、原宿とかでスカウトされるのかね?」
「いつみさんもされますよ」
「バカか! その目は節穴なのかね? もう、わざとみたいになってる。死語のオンパレード」彼女はその静かな環境のなかで大声を立てて笑う。青空は青空という状態であるだけで美しいのだ。何かに変貌する必要もないし、嫉妬も羨望もない。成長も退化もない。それは、とても恵まれているように思えた。ぼくは、仕事のことが、就職のことがちらほらと頭をよぎっている。実家に帰ってそれとなく質問もされた。そうすると自分の自由というのは、とても限られていたような気がする。受験のために勉強に励んだ時期は、つい昨日のことのようでもあった。数ヶ月もすれば仕事と将来の収入の道を確保する。この数年と、このいつみさんとプールサイドにいる時間だけが、ぼくがぼくでいられた時間だった。その自由の象徴として、いつみさんは、声を張り上げて笑ってくれたのだろう。その響きがぼくの若さと自由の凱歌でもあり、旗を振る民衆の絶叫の姿でもあった。
ぼくらはその後もいくらか泳ぎ、また日の下で寝転んだ。夕方になると、また汚れた町に出て、ビールをたらふく飲んだ。そして、ホテルの部屋でぼくはいつみさんの水着のない姿を見た。数枚の布切れの差を実感して、最後の自由を堪能した。多分、自分の若さの日々の記念としてこのことは忘れられずに刻まれていくのだろうと想像した。しかし、その想像を確認し追慕するときには、彼女がいなくなってしまっていることが前提なのかもしれない。それは自分に起こってはいけないことでありながら、また、自然と吸い寄せられていくどうしても避けられない正面衝突の瞬間のようでもあった。
「わたしの水着姿を見せてあげるよ」と、いつみさんがわざと照れ隠しのような口調で露悪的にそう言った。そして、西新宿にあるホテルの名前を告げた。ぼくは、そんな場所があることなども知らなかった。
「高いんでしょう? いっしょに行くのは、ぼくでいいの?」説明もなく、急な展開に戸惑っていた。
「プレゼントで予約してもらったの。それで、友だちと行くって言ったから。ふたりで。友だちじゃないか、いや、友だちか」
ぼくはプレゼントをした側が誰なのだろうかと考えていた。だが、深入りする権利がぼくにあるとも思えなかった。友だちだから。しかし、キャンセルした誰かの存在もうかがえた。
「なんか決まりがあるんですかね、庶民には分からないような」
「ないよ、水着さえあれば。行くんだろう? 苦学生くん。たまにはバイトと勉強だけのむなしい生活から離れてさ」
「行きますよ。でも、その表現、古すぎますよ」
「古くできてるんだよ」
それで、ぼくは寝そべり上空にある太陽をサングラスで隠していた。世界というのは限りなく快適な場所に思えた。横にはいつみさんがいた。目をきょろきょろさせて、あたりを見回している。それから、青い色の飲み物を飲んでいた。いつも、蛍光灯のしたに彼女はいた。最近では外で会うことも多くなったが、最初の印象が強いせいか、概ね室内の煙る場所のなかにいるのが似合うタイプだと感じてしまっていた。
「喧騒から逃れるって、こういうことを言うんだね」いつみさんはそう言ったが、喧騒を懐かしんでいるようでもあった。主な自分の居場所はあそこなのだと知っているように。でも、ぼくは違う場所にいて馴染もうと努力している彼女を、美しい存在だと認めていた。
「市民プールとは、さすがに違いますね」
「笛を吹かれ、直ぐに注意される。まだ、順平くん、行くの?」
「いかないですよ。それに美しい水着も水着姿もないし」
彼女は自分の胸のあたりを見下ろす。自分で宣言したわりには自信もないようであった。女性を主張するような身体ではなく、アフリカの短距離を駆け抜けることに向く動物のようなしなやかなラインだった。
「なんだか、リッチとか、ゴージャスな身体じゃないね」と自己表現をした。しかし、その容貌こそがぼくはいつみさん自身なのだと決めていた。認定という感覚に近い。もっと、女性っぽかったり、よそよそしかったり、高慢だったりすれば、彼女の良さは立ち消えになる。魅力もしぼんでしまう。「それに比べて、肉体を酷使している身体をしてるよ、順平くん。ほれぼれする」
「わざと、古臭い表現をつかってるんですか?」
「どこがだよ」
「ただ、若いだけですよ。でも、もっと、数年前なら、もっと鍛えられてたと思うけど」
「自信家。苦学生の自信家」
そう言われながらも、ぼくは空想にも甘んじる。彼女は別の誰かとここに来る予定だったのだ。それが突然にキャンセルになり、腹いせのためにぼくをだしに使う。あり得ない話でもない。だが、彼女はこのひとときも、とても楽しんでいたので、その空想自体が証明不可能になる。また、証明する必要もまったくない。世界は甘美な場所で、喧騒から隔絶されているのだから。
「咲子ちゃんが働いてくれると、わたしが遊べる。だから、あんまり会うこともできないんだけど、この前、店に大事な忘れ物があったので、休みの日に行ったから、彼女がいてね、なんだか、とても、大人になったのね。知ってた?」
「さあ。どこら辺がですか?」
「なんだか、垢抜けたんだよ。これも、古臭いか?」
「田舎から上京したことも見抜けないぐらい?」
「そうだね。ああいう素朴な可愛さがある子が、原宿とかでスカウトされるのかね?」
「いつみさんもされますよ」
「バカか! その目は節穴なのかね? もう、わざとみたいになってる。死語のオンパレード」彼女はその静かな環境のなかで大声を立てて笑う。青空は青空という状態であるだけで美しいのだ。何かに変貌する必要もないし、嫉妬も羨望もない。成長も退化もない。それは、とても恵まれているように思えた。ぼくは、仕事のことが、就職のことがちらほらと頭をよぎっている。実家に帰ってそれとなく質問もされた。そうすると自分の自由というのは、とても限られていたような気がする。受験のために勉強に励んだ時期は、つい昨日のことのようでもあった。数ヶ月もすれば仕事と将来の収入の道を確保する。この数年と、このいつみさんとプールサイドにいる時間だけが、ぼくがぼくでいられた時間だった。その自由の象徴として、いつみさんは、声を張り上げて笑ってくれたのだろう。その響きがぼくの若さと自由の凱歌でもあり、旗を振る民衆の絶叫の姿でもあった。
ぼくらはその後もいくらか泳ぎ、また日の下で寝転んだ。夕方になると、また汚れた町に出て、ビールをたらふく飲んだ。そして、ホテルの部屋でぼくはいつみさんの水着のない姿を見た。数枚の布切れの差を実感して、最後の自由を堪能した。多分、自分の若さの日々の記念としてこのことは忘れられずに刻まれていくのだろうと想像した。しかし、その想像を確認し追慕するときには、彼女がいなくなってしまっていることが前提なのかもしれない。それは自分に起こってはいけないことでありながら、また、自然と吸い寄せられていくどうしても避けられない正面衝突の瞬間のようでもあった。