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Untrue Love(91)

2013年01月06日 | Untrue Love
Untrue Love(91)

 だが、厭世的でいられないほどの喜びが体内にあり、ぼくには若さがあった。それが一直線に全身を貫いていた。ちょっとした疲れや睡眠不足や悲しみもそれを奪えない。悲観さは身内ではなく、遠い親戚にもいなかった。水族館で回遊する魚を見ていたときだ。となりにはユミがいた。ぼくの姿はあれと大して違わないのだとぼくは思っている。思案などという言葉や状態は、四十過ぎの人間だけに与えておけ、とも思っていた。

 南国の魚がいる。派手な外見を有していた。誰が、どこでどうデザインしたのだろうと純粋な疑問をもった。横を見ると、ユミはこっちに似ているのだとぼくは判断する。動くことをやめないものと、色彩で世界を魅了するもの。そのときは、それで世界は完璧だった。およその範囲で。

 地面をゆっくりと這うようにすすむもの。顕微鏡のようなものが備わったガラスで拡大しないと確認できないほどの微細な生物もいた。それはもう誰という人物と比較して考えられるものではなかった。でも、ぼくが知らないだけで、それはどこかにいるのかもしれない。今後、会うのかもしれない。だが、ユミやぼくではなかった。

 外でユミはソフトクリームを食べている。ぼくはビールを飲んだ。青空があり、快適さがあった。何にたいして快適なのだろう? 生きること。本音を告げること。愛をささやくこと。だが、ぼくはその内のどれもしない。だが、快適であることには間違いがなかった。喉が渇くこと。それも快適さの前哨戦だ。冷えたビールが喉を潤す。

 あの透明なガラスのなかで彼らは生活する。ぼくらは外を存分に歩ける。隔離もない。自分の思ったとおりのことができるのだ。だが、ベンチに座り、そう思っているだけで実行は起こさない。しかし、可能性がある状態が思ったほか心地の良いものとして実感させてくれる午後のひとときだった。

「この前、ある子に誘われてね」と、ユミがそのベンチで話し出した。
「それで?」
「予定がある、その日にって言った。ごめんね、また、今度と謝って」
「うん」ビールは底をつきかけていた。だが、ぼくはいくらか現実との境界線を失っているような気持ちをすでに手に入れていた。

「その予定はなにって訊かれて、水族館に行くって答えたんだ」
「今日のこと?」
「そう。じゃあ、デートだね、男性でしょう? とまた訊かれた」
「うん」
「それで、どんなひと、という風につづくのが当然でしょう?」
「当然だろうね」
「同じ状態にあるとしたら、順平くんはどういう風にわたしのことを説明するんだろうって、そのときに思った」

 それは、ぼく自身が決めないといけないユミの全体像でもあり、ぼくに対する影響の度合いを計る物差しでもあるようだった。もちろん、影響も受ける。いっしょに過ごす時間はことのほか楽しいものだった。だが、それで充分だった。一方では、充分でないと思っているひともいた。ユミの表情を見ると、それが理解できた。その言葉を口に出す順番がたまたまユミが早かっただけなのだ。遅いのは逆にぼくではなく、いつみさんや木下さんであるのかもしれない。いや、やはり遅いのはぼくだ。「ぼくのことを、なんて説明したの?」という疑問を簡単に口に上らすだけで結論は済んだ。

「南国の魚みたいな子と、南国の魚の色合いを見に行くって感じかな」ぼくは本心ではないことを本心だと思われないことを知ったまま話していた。大事な人? 掛け替えのない人? 取替えのきかないぼくの大切な相手。だが、それはぼくがどこかで読んだことのある大切なひとをあらわす言葉や情景を真似ただけだった。だが、ユミは自分の服を引っ張って確認することに意識を集中していた。

「似合っていない?」
「ううん。まったくの反対。休日のデートの服装」これが、デート以外の何ものでもないことをぼくは認めた。ここに来るのが別の人間になる可能性はひた隠しにして。だが、ユミといることが、ここでの場合はいちばん楽しくなることも知っていた。二人でいるとどんな具合でかは分からないが調合がうまい具合に混じり合ったスパイスのような作用を及ぼしていた。関係がすすめばすすむほど、それは揺るぎのない事実になった。事実の積み重ねが証明になった。確信がまたあらたな好奇心に化けた。その好奇心が何かしらの計画になった。この水族館を去っても次の予定が自然にできるだろう。それをぼくらは実行する。そして、実行のあとには、やはり積み重ねの正しさが底流にのこるのだ。幸福のカギを開く暗証番号は間違えていないとでもいうように。

 いつみさんと木下さんといるときには、その確信を感じていないとでもいうのだろうか。ぼくはぼく自身に疑問を突きつける。それは疑問の余地なく間違いであることを知っていた。それぞれのひとが、それぞれの方法でぼくに魔法を振りかけた。アニメのなかの人物でもあれば、ぼくの周りにはきらきらと光る粒子が散らばっていることだろう。だが、その粉をもっているのは彼女たちであるようだった。ぼくは待つ身なのだ。いつみさんと木下さんは別々に処方されたマジックを起こす粉末をもっている。すると、目の前でペンギンが餌の時間になったのか長靴姿の飼育員の到来を待ちかねている悲鳴のような音をあげた。あのような鳴き声を出すのだ、とぼくはあらためて知る。ビールのなくなった紙コップをゴミ箱に捨て、ぼくとユミは見物するためにそこまで歩き出した。あの姿はぼくのようでもあった。回遊するものではなく、今度は餌を待つだけの身だ。それもそれで快適な状態でもあるようだった。