爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

Untrue Love(95)

2013年01月19日 | Untrue Love
Untrue Love(95)

 ひとは、なぜ誰かを好きになってしまうのだろう、という根源的な問題を、講義を受けながら考えていた。こちらは、根源的な問題と隔たりがあったからかもしれない。もしかしたら重要なことが話され、ある男性によって解説されていたのかもしれないが、ぼくの耳にとっては確実な真実とも思えなかった。

 誰かがいる。そのひとと定期的な形で会う。触れ合う。会話があり、そのひとの振る舞いが自分の気持ちのどこかを動かす。そうすると、ぼくのこころの奥に誰かを愛さなければならないという宿命にも似た気持ちが埋め込まれているのだろう。そのマグマが活発に動く時期になり(まさに、いま)不特定のなかからひとりの女性を対象として見つける。ここで、そもそも間違っていることに気付く。普通は、ひとりで充分なのだろう。ぼくには、それでは三つのマグマが眠っていたことになるのだろうか。その対象を見つけたことは喜びにもつながり、いささかの苦しみや息苦しさにも連結する。胸が苦しいなどという状態とは無縁でいられた子ども時代。ふたたび、あの年代に戻れることはもうないのだろうか。さすがにそれは危険すぎる。もう、スタートの合図はなってしまったのだ。あとはレースを終えなければならない。

 紗枝が、となりの女性と話しているのが見えた。楽しいことがあったのか、笑い声が大きすぎた。教壇で講師が不愉快な顔をする。紗枝にマグマを働かす。別の意味で。怒りも愛情も、こころを動かすということでは遠くない親戚なのだろうか。

 ぼくは、交遊の幅をひろげなかったが、不思議と紗枝とは話が合った。油断をすると壁を作り上げてしまう自分の性格。その壁のなかにいることさえ、日常的なことなので忘れてしまう。母と幼少期にバスに乗っている。となりにいる赤ん坊を抱いている女性と打ち解けあって話している母親。世界は融和でできている印象をぼくの幼いこころに与えた。ぼくには壁があり、鎧があった。それは要塞の役目ではなく、単純に勝手に作り上げられてしまうものだった。それを飛び越えて、誰かを愛したいという気持ちは上回って行くのだろう。鎧を瞬時に脱ぎ捨て、高い壁をものともせず乗り越え、要塞を打ち砕く。その向う側にこそ、不審ではなく信頼や愛情の尊さがあった。

 ぼくは、こう考えながら、こうした考え自体が壁を構成する素材となり得るとも感じていた。いつしかそれは石灰化し、こびりついて壁を強固にして、誰の手も及ばなくなる。

 だが、椅子に座っている時間から開放された。思考も終了である。

「なんか、大笑いしてたね」ぼくはすれ違うときに紗枝に話しかけた。

「だってね・・・」友人との会話を再現しはじめた。先日、ふたりは遊園地に行き、そこで起こったハプニングについて話していた。その快活さと話術の見事さにぼくも魅了される。だが、魅了されても、ぼくの愛情の芯のようなものはまったく揺れない。ローソクのような小さな炎も起こらない。例えば、木下さんはそれほど、ぼくに楽しい話題を提供してはくれないかもしれないが、ぼくのこころの火は燃え、ガスバーナーのような勢いをときにはもつ。それが彼女がもたらせてくれたものなのか、ぼくの内部の若さが発露を求めていただけなのか分からなかった。ただ、紗枝に対しては起きないのだから、両者の結合がうまく噛み合って生じる性質のようなものなのだろう。それは、ぼくにいくつ与えられているのだろう。十個ぐらいか? ならば、もう三つは使ってしまった。それも同時期に使ってしまった。いや、三つだけなのかもしれない。ぼくは、もう今後、誰かを真剣に愛することはできないのかもしれない。この三つのうちのどれかを枯れさせることなく、飼料を与えつづけるのだ。それは、ときには種火のような状態に陥るかもしれないが、いつか再燃する。いや、三十も四十もあるのかもしれない。しかし、忙しい生活に入り、その炎のもとを自分の靴底で踏み潰し消してしまうのかもしれない。

「じゃあ、またね」と言って話し終えた紗枝は友人のもとに戻った。

 紗枝は、ならばその種火をいくつ持っているのだろう。ひとつは、早間に対して使った。早間のために咲子も消費したのだろう。多分、ひとつ。ぼくは、ひとりになりまた思索を再開した。だが、大きな炎や燃える松明になるのを知らずに暮らすひともいるのかもしれない。また、相手がいることなので、その炎は相手には移らないままで終わる。横の建物に引火しないよう、誰かが必死に消火作業に励む。それも、むなしいできごとだった。

 ぼくはバイトのために電車に乗った。老人のために席を譲る高校生がいた。化粧のない素肌の顔。そのような動作をすんなりとできるよう育てた親は、やはり世間との壁のことなど彼女に伝えないのだろう。ぼくも伝えられていない。ただ、そこにあった。ぼくのいくつかの恋心も同様にただ、そこにあった。数駅先で、その老人は感謝の挨拶を彼女に述べ、ホームに降りた。その高校生にも誰かと一致したいという気持ちが眠っているのだろう。その相手は年頃の異性であるのが妥当だが、別の価値基準での優しさの袋も彼女はもっているのだ。それを小出しにする。ぼくには、それがプレゼントされているのか。それは、自分で探しに行くような類いのものであるのだろうか。次の駅でぼくも降りた。身体を早く動かして、思案をやめたい、切り上げたいという思いが強くなっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする