爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

Untrue Love(99)

2013年01月25日 | Untrue Love
Untrue Love(99)

 バイトが終わったあとに、木下さんにも報告した。仕事が決まったことを。彼女も我がことのように喜んでくれた。世界は優しさに満ちているようだった。少なくともぼくの周りの世界では。

「じゃあ、お祝いをしないとね」

 それで、来週の彼女の平日の休みに合わせて、ぼくの予定も決まった。大学生という立場で彼女と会う日々も段々と減っていく。物事は移ろい往く運命のようだった。ダムのようにある一定の場所に自分をためこみ、固定することなど不可能なのだ。放水する勢いに自分ものるだけだった。濁流に呑み込まれずに首を水面から出して。その日、ぼくは家に帰り、大げさにカレンダーにスケジュールの証拠として丸をつけた。

「こうやって、大人になっていくんだね」彼女は平日の昼、大事な弟を見つめるような目付きをした。
「いろいろお世話になりました」
「そんな風に言われると、もうこの関係が終わるみたい。育つヒナを見守る親鳥の心境だね。残るのは空っぽの巣。卒業。終止符。何にもしてあげられなかったけどね」
「いや、もういっぱい。たくさんあった」
「バイト楽しかった?」
「慣れれば簡単でした。複雑じゃなかったし」
「売り上げに一喜一憂する心配もない」
「ないですね。忙しくなくて暇になるのはものが移動しないから。なかなか売れないんですか?」
「うちは、そうでもないけど。箔みたいなものを大切にするお客さんが大勢いるからね」ユミの労働といい、それなりに苦労が伴っていることをぼくはいままであまり認識していなかった。彼女らの魅力にそれは不可欠なのかも同じように重要視していなかった。
「靴の裏も磨り減りますし」
「誰も消耗品として履いているわけじゃないのよ。順平くんも、もうスニーカーじゃ駄目になるんだよ。靴がいいか、プレゼントは。さ、買いに行こう」彼女はぼくの手を握った。そして、小走りになった。

 ぼくは自分の足に合うよう何足も履き替え、その度に足を新品の革のなかに突っ込んだ。店員も最初は懇切丁寧に対応してくれたが、いつの間にかその役目は久代さんが引き継いだ。彼女はかがみ、手触りや感触を確かめた。
「これだね」そう言うと、店員を呼んだ。また角張った箱に靴が戻され、レジのところまで持っていかれた。久代さんはオレンジ色の財布を取り出し、その代金を支払ってくれた。ぼくはユミに買ってもらった自分のものになる財布のことも思い出していた。自分に対して世間(この場合は複数の女性)が、とても甘やかしていることを抵抗もせずに受け入れていた。ぼくが稼ぐようになれば、ぼくが支払うことになるものも多かった。それはひとりのためか、もしくは三倍になるのかいまはまだ不明だった。

「履いている間は、わたしを忘れない」
「ずっと、忘れないですよ」忘れないという言葉が意味するものは、継続や安定という状態から離れ、それでもこころに残ることなのだとぼくはそこで気がついた。すると、忘れるとか忘れないという言葉を持ち出したこと自体が、誤りの核心でもあるようだった。「駄目になったら、お客になって、久代さんのところに買いに行きます」
「順平くんになら、社員割引にしてあげるから」

 それも関係が中断し、再会した立場を鮮明にするような話題だった。継続するという過程と、物事は終わりに向かってすすんでいるという道筋が対立している。ただ、ぼくの役柄が変わるだけなのに、なぜだか必要以上に物思いにさせた。そして、ぼくはそのどちらの流れにも身をゆだねることができた。

「お腹、空きましたね」彼女は相槌のかわりに微笑む。
「あと何足か買って、ローテーションにしないと靴が痛むのが早いからね。そこまでは面倒みないよ」ご飯を食べながらも彼女は靴のことを絶えず考えているようだ。ユミも自分の仕事が好きだと言っていた。ぼくも同じように胸を張って好きなことについて夢中になり、時間の経過などにも無関心で話しつづけることができるだろうか。そういう対象をひとつでも持てるだろうか。さらに、それを自分の職業に対して感じられるだろうか。と、自分の未来に疑問を持った。反対に羨望と呼ぶべき気持ちで、ぼくは久代さんを見た。

「ぼくも、仕事に久代さんみたいな愛着を感じられますかね?」
「しないと仕様がないでしょう。有無もなく」
「そうですね。長時間、関わる仕事だから」
「でも、よく聞くと順平くんが扱うのって、わたしの家に必要がないものばっかりみたいね」
「法人向けの製品や部品ですからね」ぼくは久代さんの役に立てない自分が歯痒かった。もっと深みへつながるような密接した関係を作り上げたかったのだろう。その気持ちは彼女の部屋の電気の配線や模様替えを手伝ったことが懐かしい記憶となって、ぼくの中でつながった。「でも、何かあったら、直ぐに手伝いに行きますよ」
「いらない本もたまっちゅうしね」彼女の文庫のお下がりをぼくは貰っていた。仕事に関係のない本をこれからもぼくは読んだり、またぼんやりと彼女の部屋で過ごす時間を見出せるのだろうか。
「もう、たまってます?」
「うん、たまってる」
「見繕いに行ってもいいですか?」
「いいよ、どうぞ。わたしもそのつもりだったから」

 彼女の背中が部屋のカギを開ける場面にかわる。ぼくは、いまのアパートを更新するだろう。もう、親のお金を頼りにしない。だが、責任ということではまだまだ子どもだった。大人の男性は自分の行動を律するべきだった。ぼくは彼女の横でおだやかに眠る。ここもぼくの居場所であり、同じ比重で仮初めの安楽のようでもあった。