Untrue Love(88)
ぼくは大学にいて講義を聴いている。だが、頭のなかの多くは別の事柄に占領されていた。
失うということに対しての不安と、取り戻すということへの情熱の連鎖だ。喪失という状態にある日置かれ、無くなったからこそそれが大切なものか否かが見極められ、もういらないと片方では決め、もう一方ではあれ程、大事なものをどうして軽んじたいたのだろうという漠然とした心配の追及があった。ぼくはその立場には置かれていない。恵まれていたのかも分からない。ただ、まだ経験に乏しいだけなのだろう。高校生のときの交際相手は、ぼくに何の痕跡ものこしていない。やはり、それも格好つけた言い訳だろう。幾分かの苦い後味がそこにはあった。ぼくはいらないと告げられたのだ。代わりが彼女に見つかった。だが、ぼくはどこかでその状態に清々している。取り戻すことも考えていない。必要もなくなった絆創膏のようにそれは剥がされても次のものはいらないのだ。完治する傷。
ぼくは、ユミの前で「いつみ」と言った。
「名前、間違えた?」と彼女は振り向く。
「違うよ。言いよどんだだけ」言いよどむ? それから、喉が渇いて口内に水分がなかったとか、舌がどこかに絡まって、とあるべきもないことを付け足した。名前の音節がそう遠くもないのでそれは誤解であると認識するまで時間はかからなかった。だが、ぼくには当然だが動揺がある。そのつまらない嘘とその上塗りを平然とすることができる自分に驚いていた。
彼女はお客さんの名前を間違えたエピソードを話す。それは失礼な話だったが、なんとか笑い話にできるほどにまで向上させた。だが、大学でひとり座って考えていると、あのいくらか高まった緊張感を消し去るために敢えて彼女はそのことを持ち出したのかもしれないと考えていた。
ぼくは、いつみさんのことを「いつみ」と呼び捨てにすることはなかった。彼女はそれに不服があるとも言った。だから、間違いとして登場するのはあり得ないことだった。だが、脳の完全なる仕組みなど誰にも分からない。
もし、いつみというぼくにとって大事なひとがいて、ユミのことも好きだけど、どちらかを失うのだと仮に天秤にかけるとしたら、ぼくは君を捨てるだろう、と正直に告げたらどうだろう。彼女は首肯する。ぼくは生まれてはじめてその「首肯」という言葉を使った。自分のなかにその言葉が眠っているとも知らなかった。反対に、自分を選ばないデメリットを述べ立てるかもしれない。はじめから真剣な関係にする積もりもなかったし、順平くんもそうだったんでしょう? と逆に軽い気持ちの平和が訪れるかもしれない。だが、ぼくはいつみさんとユミのどちらにより重きを置いているのか自分でも分からなかった。
その同じ話題を今度はいつみさんに言うことを空想していた。ユミって誰? わたしたちふたりで解決するから、そのひとに会わせて。順平くんは口を挟まないでね。わたしたちの問題なんだから、ときっぱりとそのぼくの存在が跳ね除けられる。いや、これはぼくの問題なのだ。ぼく自身の問題なのだ。
だが、その日は来ない。いつか、だが来るかもしれない。世界の終焉や、地球の裏側から刻々と忍び寄る津波のようなスピードで。
でも、終わらす方法も思いつかなかった。しばらくして講義の時間だけが確実に終わった。終わると紗枝が話しかけてきた。何人かの男性の話をして、そのひとびとの及第点と不満な部分をそれぞれ言った。ぼくは、そのどれをも持っているのが早間ひとりだけのような気もしていた。彼女の潜在意識にその当人の後光のようなものがあるのかもしれない。何人かの長所を積み上げるとひとりの男性になる。そのこと自体がうらやましいことに思えた。ぼくは三人の女性のそれぞれの美点に惹かれ、そして、持て余していた。三人をくっつけることなど想像もできない。彼女たちは純粋に彼女らではなくなる。そのようなことを誰もしてはならない。また、ぼく以外の誰にも与えたくなかった。
「今度、会わせるよ。紹介して評価してもらう」紗枝はそう言い残し、そこを去った。ぼくにどれほどの見る目があるのだろう? 彼女は何を期待しているのだろう。紹介し、評価する。ユミといつみ。ぼくは口のなかでもぐもぐとひとりごとを言っていた。連鎖を検査するとも。
バイトに行くと木下さんが缶コーヒーをくれた。彼女の名前は間違いに加わることはなさそうだった。そのことになぜか安堵していた。
ぼくは貰ったものを飲みながら久代さんと立ち話をつづけた。紗枝のことを持ち出すのが相応しいと思い、さっきのやり取りを彼女に話した。
「男性同士って、女性同士より正当な評価ができるでしょう?」具体例は出さないが確信がこもった口調で彼女はそう断言した。久代さんにぼくは空想で訊く。あなたといつみさんとユミの誰が、ぼくのことを大切に思ってくれているでしょう。そのうちの誰を失ったときにぼくはいちばん悲しむのでしょう。でも、口には出さない。出せば終わりだ。それで、
「やはり、女同士はダメですかね?」と質問をした。
彼女は目前に見たくないものでもあるかのように、顔をいくらかしかめて無言で首を左右に振った。
ぼくは大学にいて講義を聴いている。だが、頭のなかの多くは別の事柄に占領されていた。
失うということに対しての不安と、取り戻すということへの情熱の連鎖だ。喪失という状態にある日置かれ、無くなったからこそそれが大切なものか否かが見極められ、もういらないと片方では決め、もう一方ではあれ程、大事なものをどうして軽んじたいたのだろうという漠然とした心配の追及があった。ぼくはその立場には置かれていない。恵まれていたのかも分からない。ただ、まだ経験に乏しいだけなのだろう。高校生のときの交際相手は、ぼくに何の痕跡ものこしていない。やはり、それも格好つけた言い訳だろう。幾分かの苦い後味がそこにはあった。ぼくはいらないと告げられたのだ。代わりが彼女に見つかった。だが、ぼくはどこかでその状態に清々している。取り戻すことも考えていない。必要もなくなった絆創膏のようにそれは剥がされても次のものはいらないのだ。完治する傷。
ぼくは、ユミの前で「いつみ」と言った。
「名前、間違えた?」と彼女は振り向く。
「違うよ。言いよどんだだけ」言いよどむ? それから、喉が渇いて口内に水分がなかったとか、舌がどこかに絡まって、とあるべきもないことを付け足した。名前の音節がそう遠くもないのでそれは誤解であると認識するまで時間はかからなかった。だが、ぼくには当然だが動揺がある。そのつまらない嘘とその上塗りを平然とすることができる自分に驚いていた。
彼女はお客さんの名前を間違えたエピソードを話す。それは失礼な話だったが、なんとか笑い話にできるほどにまで向上させた。だが、大学でひとり座って考えていると、あのいくらか高まった緊張感を消し去るために敢えて彼女はそのことを持ち出したのかもしれないと考えていた。
ぼくは、いつみさんのことを「いつみ」と呼び捨てにすることはなかった。彼女はそれに不服があるとも言った。だから、間違いとして登場するのはあり得ないことだった。だが、脳の完全なる仕組みなど誰にも分からない。
もし、いつみというぼくにとって大事なひとがいて、ユミのことも好きだけど、どちらかを失うのだと仮に天秤にかけるとしたら、ぼくは君を捨てるだろう、と正直に告げたらどうだろう。彼女は首肯する。ぼくは生まれてはじめてその「首肯」という言葉を使った。自分のなかにその言葉が眠っているとも知らなかった。反対に、自分を選ばないデメリットを述べ立てるかもしれない。はじめから真剣な関係にする積もりもなかったし、順平くんもそうだったんでしょう? と逆に軽い気持ちの平和が訪れるかもしれない。だが、ぼくはいつみさんとユミのどちらにより重きを置いているのか自分でも分からなかった。
その同じ話題を今度はいつみさんに言うことを空想していた。ユミって誰? わたしたちふたりで解決するから、そのひとに会わせて。順平くんは口を挟まないでね。わたしたちの問題なんだから、ときっぱりとそのぼくの存在が跳ね除けられる。いや、これはぼくの問題なのだ。ぼく自身の問題なのだ。
だが、その日は来ない。いつか、だが来るかもしれない。世界の終焉や、地球の裏側から刻々と忍び寄る津波のようなスピードで。
でも、終わらす方法も思いつかなかった。しばらくして講義の時間だけが確実に終わった。終わると紗枝が話しかけてきた。何人かの男性の話をして、そのひとびとの及第点と不満な部分をそれぞれ言った。ぼくは、そのどれをも持っているのが早間ひとりだけのような気もしていた。彼女の潜在意識にその当人の後光のようなものがあるのかもしれない。何人かの長所を積み上げるとひとりの男性になる。そのこと自体がうらやましいことに思えた。ぼくは三人の女性のそれぞれの美点に惹かれ、そして、持て余していた。三人をくっつけることなど想像もできない。彼女たちは純粋に彼女らではなくなる。そのようなことを誰もしてはならない。また、ぼく以外の誰にも与えたくなかった。
「今度、会わせるよ。紹介して評価してもらう」紗枝はそう言い残し、そこを去った。ぼくにどれほどの見る目があるのだろう? 彼女は何を期待しているのだろう。紹介し、評価する。ユミといつみ。ぼくは口のなかでもぐもぐとひとりごとを言っていた。連鎖を検査するとも。
バイトに行くと木下さんが缶コーヒーをくれた。彼女の名前は間違いに加わることはなさそうだった。そのことになぜか安堵していた。
ぼくは貰ったものを飲みながら久代さんと立ち話をつづけた。紗枝のことを持ち出すのが相応しいと思い、さっきのやり取りを彼女に話した。
「男性同士って、女性同士より正当な評価ができるでしょう?」具体例は出さないが確信がこもった口調で彼女はそう断言した。久代さんにぼくは空想で訊く。あなたといつみさんとユミの誰が、ぼくのことを大切に思ってくれているでしょう。そのうちの誰を失ったときにぼくはいちばん悲しむのでしょう。でも、口には出さない。出せば終わりだ。それで、
「やはり、女同士はダメですかね?」と質問をした。
彼女は目前に見たくないものでもあるかのように、顔をいくらかしかめて無言で首を左右に振った。