爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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Untrue Love(88)

2013年01月03日 | Untrue Love
Untrue Love(88)

 ぼくは大学にいて講義を聴いている。だが、頭のなかの多くは別の事柄に占領されていた。

 失うということに対しての不安と、取り戻すということへの情熱の連鎖だ。喪失という状態にある日置かれ、無くなったからこそそれが大切なものか否かが見極められ、もういらないと片方では決め、もう一方ではあれ程、大事なものをどうして軽んじたいたのだろうという漠然とした心配の追及があった。ぼくはその立場には置かれていない。恵まれていたのかも分からない。ただ、まだ経験に乏しいだけなのだろう。高校生のときの交際相手は、ぼくに何の痕跡ものこしていない。やはり、それも格好つけた言い訳だろう。幾分かの苦い後味がそこにはあった。ぼくはいらないと告げられたのだ。代わりが彼女に見つかった。だが、ぼくはどこかでその状態に清々している。取り戻すことも考えていない。必要もなくなった絆創膏のようにそれは剥がされても次のものはいらないのだ。完治する傷。

 ぼくは、ユミの前で「いつみ」と言った。

「名前、間違えた?」と彼女は振り向く。
「違うよ。言いよどんだだけ」言いよどむ? それから、喉が渇いて口内に水分がなかったとか、舌がどこかに絡まって、とあるべきもないことを付け足した。名前の音節がそう遠くもないのでそれは誤解であると認識するまで時間はかからなかった。だが、ぼくには当然だが動揺がある。そのつまらない嘘とその上塗りを平然とすることができる自分に驚いていた。

 彼女はお客さんの名前を間違えたエピソードを話す。それは失礼な話だったが、なんとか笑い話にできるほどにまで向上させた。だが、大学でひとり座って考えていると、あのいくらか高まった緊張感を消し去るために敢えて彼女はそのことを持ち出したのかもしれないと考えていた。

 ぼくは、いつみさんのことを「いつみ」と呼び捨てにすることはなかった。彼女はそれに不服があるとも言った。だから、間違いとして登場するのはあり得ないことだった。だが、脳の完全なる仕組みなど誰にも分からない。

 もし、いつみというぼくにとって大事なひとがいて、ユミのことも好きだけど、どちらかを失うのだと仮に天秤にかけるとしたら、ぼくは君を捨てるだろう、と正直に告げたらどうだろう。彼女は首肯する。ぼくは生まれてはじめてその「首肯」という言葉を使った。自分のなかにその言葉が眠っているとも知らなかった。反対に、自分を選ばないデメリットを述べ立てるかもしれない。はじめから真剣な関係にする積もりもなかったし、順平くんもそうだったんでしょう? と逆に軽い気持ちの平和が訪れるかもしれない。だが、ぼくはいつみさんとユミのどちらにより重きを置いているのか自分でも分からなかった。

 その同じ話題を今度はいつみさんに言うことを空想していた。ユミって誰? わたしたちふたりで解決するから、そのひとに会わせて。順平くんは口を挟まないでね。わたしたちの問題なんだから、ときっぱりとそのぼくの存在が跳ね除けられる。いや、これはぼくの問題なのだ。ぼく自身の問題なのだ。

 だが、その日は来ない。いつか、だが来るかもしれない。世界の終焉や、地球の裏側から刻々と忍び寄る津波のようなスピードで。

 でも、終わらす方法も思いつかなかった。しばらくして講義の時間だけが確実に終わった。終わると紗枝が話しかけてきた。何人かの男性の話をして、そのひとびとの及第点と不満な部分をそれぞれ言った。ぼくは、そのどれをも持っているのが早間ひとりだけのような気もしていた。彼女の潜在意識にその当人の後光のようなものがあるのかもしれない。何人かの長所を積み上げるとひとりの男性になる。そのこと自体がうらやましいことに思えた。ぼくは三人の女性のそれぞれの美点に惹かれ、そして、持て余していた。三人をくっつけることなど想像もできない。彼女たちは純粋に彼女らではなくなる。そのようなことを誰もしてはならない。また、ぼく以外の誰にも与えたくなかった。

「今度、会わせるよ。紹介して評価してもらう」紗枝はそう言い残し、そこを去った。ぼくにどれほどの見る目があるのだろう? 彼女は何を期待しているのだろう。紹介し、評価する。ユミといつみ。ぼくは口のなかでもぐもぐとひとりごとを言っていた。連鎖を検査するとも。

 バイトに行くと木下さんが缶コーヒーをくれた。彼女の名前は間違いに加わることはなさそうだった。そのことになぜか安堵していた。

 ぼくは貰ったものを飲みながら久代さんと立ち話をつづけた。紗枝のことを持ち出すのが相応しいと思い、さっきのやり取りを彼女に話した。

「男性同士って、女性同士より正当な評価ができるでしょう?」具体例は出さないが確信がこもった口調で彼女はそう断言した。久代さんにぼくは空想で訊く。あなたといつみさんとユミの誰が、ぼくのことを大切に思ってくれているでしょう。そのうちの誰を失ったときにぼくはいちばん悲しむのでしょう。でも、口には出さない。出せば終わりだ。それで、

「やはり、女同士はダメですかね?」と質問をした。
 彼女は目前に見たくないものでもあるかのように、顔をいくらかしかめて無言で首を左右に振った。
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Untrue Love(87)

2013年01月02日 | Untrue Love
Untrue Love(87)

 ぼくはいつみさんと別れ、家までの道を歩いている。ひとは変化するものだという議題で、自分のなかの別々の個性が討論している。ひとの変化とは、人間関係の変化に尽きる気がしていた。また、当事者同士でも変化が起こった。ぼくのなかにいつみさんがきっちりとある居場所を作っていた。もう追い出すことなどできない。ぼくが記憶喪失にでもならないかぎり。だが、ひとは変化するのだ。この仮定に立てば、忘れるということも起こりえない訳にはいかなかった。

 環境の変化もあった。ぼくは誰かから教わる立場だが、働いて稼ぐという状態にそのうち移行する。もう仕事をしているひとはどうなのだろう? 木下さんはデパートで靴を売っている。数年後も、そうしているだろう。いつみさんはあの店にいる。やはり、誰かに笑みを浮かべ、お客を迎えているのだろう。ユミは働く場所が変わったとしても、きれいになりたい誰かの髪を切っていることだろう。すると、人間が変わるという基点は、職業を選ぶということにたどり着くようでもあった。

 ぼくの問題は一先ず置き、咲子のことを考えた。ぼくより遅いが彼女も仕事を選ばなければならない。ぼくは、そこで彼女のことをまったく知らないことに気付く。彼女はなにになることを求めて勉強しているのだろう。幼少期から憧れていた職業があるのだろうか。それを前に据え、こつこつと何かを習得しようと頑張っているのだろうか。やはり、どのような回答もぼくには与えられていなかった。ひとの前方にあるものに対して未知であるということが不安の源泉になることを、ぼくは歩きながら知った。

 咲子の将来のことも判断材料に加えるのには未熟なサンプルなので、その彼氏でもある早間のことを空想の題材にした。彼はなにになるのだろう? 生活の糧となるものとして欲したり、やり遂げるべき職業像みたいなものをすでにつかんでいるのだろうか。やはり、ここでもぼくは何も知らない。数人の女性の周辺をうろついていることに甘んじている自分は、世界を広げているようで、逆に狭めてもいるようだった。同じ年頃の男女がどういうものを基準として毎日を過ごしたり、今後の生活を組み立てようとしているのか、ぼくにはまったくの謎に満ちた存在としてしか考えられなくなっていた。

 そこで、やっとポケットの奥に隠していた大切なものを取り出すように、自分の未来についての考えを引っ張り出した。その手触りを確かに感じても、それ自体が答えを導き出してくれそうにない。それをこね回して、内部で発光しそうなものをぼくが見つけないといけなかった。なかなか難題なものとしてしかぼくには分からない。それで、直ぐにそれを元あった場所に引っ込めた。テストの前夜の現実逃避のゲームや遊戯のように。

 両親は、ぼくにどうなってほしいのだろう。ぼくは自分を客観視するために、第三者の視線を必要とした。ぼくの収入を期待するほど、彼らは自らの生活に困窮をしている訳ではない。どこかで、自分の好きなことに対して挑めば良いとでも思っているのだろう。口にはしないが、ずっとそうだったので急に方向転換することもないだろう。彼らの意思は変わらない。ぼくに対する愛情や期待も変わらない。いつか、ぼくを憎んだり、嫌ったりする存在ではないのだ。だから、第三者の目として取り入れるのは、そもそも間違っていたのかもしれない。

 いつかぼくのことを嫌うという状態に転換する可能性のあるひとたち。それは不特定多数いるようだったが、これも最初の条件として、嫌ったことの振り幅が分かるほど、ぼくに好意を感じていなければならない。ならば、いつみさんもぼくのことを嫌いになり得た。ぼくとユミや木下さんのことを知れば、そういうことも起こり得た。それは独占を求めるからであり、反対にぼくもいまでも、いつみさんが誰か別の男性に抱かれていれば決して許さないだろう。ぼくの立脚地は、もの凄く小さな場所なのだ。その不安定な状態を短くない間、保とうとしていたのだ。しかし、爪先で永遠に立つことなどできない。爪が割れ、足がわななく。そうなれば、ぼくは結果として憎まれた。誰からも好かれたいと思い続けた結果として手に入れるのは憎悪という感情だけなのだ。

 ひとは変化するのだ。だが、まだぼくは誰かひとりを選び抜くという立場から逃げていた。変化を求めないことも刻々と微細に変化している揺れをつかんだことの証なのだ、という無駄な議論を頭のなかでテニスのラリーのように繰り返していた。いつか、黄色いボールは外にこぼれ、審判は見咎める。ぼくは言い訳を探す。謝罪でもない。憎しみをぶつけられることに耐えるわけでもない。言い逃れの方法を探す。だが、もし仮に、ぼくに対してひとりも本気の感情ももっていなければ、これも無駄な個人的な討論だった。アパートが近付き、議論の矢は壁に打つかって止まった。その的となるものはどんなものだろう? いつみさんの横顔。ユミのきれいな指。木下さんの憂いに帯びた表情。ぼくはそのどれにも変化を期待していなかった。永久に留まるべき美点の持ち主たちだったからだ。
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Untrue Love(86)

2013年01月01日 | Untrue Love
Untrue Love(86)

 目の前に、十センチも離れていないところにいつみさんの顔がある。いまは下にある。関係性には変化が伴うものだとぼくは感じている。ぼくの頭にはいろいろなことが浮かび、このときは別の女性のことは考えていなかった。ただ、自分の未来に対して漠然とした公約数のようなものを考えていただけだ。

 ぼくは大学生という状態と近いうちに別れる。まだ、数年はあるが。仕事をそろそろ決めなければならない。仕事というより、自分が所属する会社だともいえた。そこには希望があるようだが、ある種の自由は減るのだろう。いずれ、誰かの夫になり、誰かの父の役目も引き受けるかもしれない。その娘だか息子には母がいる。それは当然、ぼくの妻なのだ。その小さな存在をあやす姿が誰なのか、ぼくはそこで考えていた。いつみさんのようにも思えた。この場では、いつみさんしか考えられなかった。だが、職場とそれに付随する海にただよう船の乗員になるぼくは、違う種類の海図を基準にして生活するようになるのだろう。思い掛けない嵐や暴風雨に巻き込まれた自分は、もう大学のときの淡い思い出や期待と意図しないにせよきっぱりと縁を切っているのかもしれない。道を外れたことも認知しない初心者のドライバーのように。

 しかし、いつみさんの身体がそばにある。どちらの汗か分からないほど、ぼくらは密着している。この事実をぼくには捨てられないと分かってもいた。また、捨てる理由も皆無だった。だが、やはり、海のうえでは違う予想や判断をするのだろう。生き延びる覚悟が変わってくる。両足が地に着いた状態ではない。何かしらの渇望が判断を狂わせる可能性だって大いにある。でも、それはすべて予測の範疇の話だった。具体的なものはひとつとしてない。だから、その考えは間延びしているのを保つのにも限度があった。それで、いつみさんの肉体を取り戻す。

 ぼくは進むべき道をまっすぐ快適に走っている。こうしている限り後悔というのは起こりえない。あの時、道から逸れたのだという失敗の焦燥もまったくない。だが、これから、もういまでもだが道は複数に別れる。どこかで勝手に行き止まりになってくれていれば良いとも思っていた。だが、それはあまりにも無責任な自分勝手な望みだった。どこかに決めなければ、いずれ事故が起きる。衝突が起こる。ぼくの運転免許証は取り上げられ、剥奪される。すべて象徴的な羅列だったが、架空の話でもなかった。

 いつみさんはラフな洋服を着ている。彼女もぼくらの関係が永続するものとはこころの奥では思っていないのかもしれない。それはぼくの望みのようでもあったし、ずるい煩悶でもあった。事実としても年齢の差が少なからずあった。それに拘るほど、いつみさんが世間の目を大切にしているとも思えない。また、ぼくといつみさんが相手にしなければならない世間などなかった。キヨシさんの同意や反対だけだったのだ。彼が、この関係を覆す努力をしている様子などあり得ない。だから、敵に仕立てる世間も消えた。

 いつみさんの背中がコーヒーを入れていた。彼女はこちらに向き、テーブルにそれを置いた。
「布団から、出てこいよ」

 ぼくはそろそろと床に足の裏を着ける。あるひととの距離が縮まり、また設定をし直す。いまはこの距離感が思いのほか難しかった。
「いい匂いですね」
「家でも飲む? 両親とかも好きだった?」

 それは普通の会話だ。誰もが行う質問だ。だが、そこでいつみさんとぼくの両親の関係は、ぼくという対象があり、それを介在させれば簡単に成り立ちえる、という事実に驚き、戸惑っていた。彼女に作為などないことはぼくがよく知っていた。これは、普通の一般的な会話の部類なのだ。

「みんな、飲みますね。父は、頭を使う職業だから、とくに」
「お父さんの思い出があるっていいね」いつみさんは素朴な口調で言った。そこには憧憬と見果てぬ願望があるようだった。だが、ぼくにとっては彼女たちの兄弟関係のほうが単純にうらやましかった。だから、そう言った。
「土手で、弟の野球を応援するほうが思い出としては恵まれていますよ」
「ないものねだりばっかりだね」

 いつみさんに、何が不足しているのかぼくには分からなかった。彼女はひとりですべてを兼ね備えているようにも思えた。木下さんにはどこかに淋しさがあるようだったし、それが彼女の美しさを際立たす背景の一部ともなっていた。ユミにとっては他者とふざけ合う様子がぴったりとあった。でも、ぼくにはここで、先刻までいた土手のぼくらふたりの後ろ姿が見えるようだった。いつみさんがひとりで座っていることは考えられない。いや、敢えてその映像をぼくは作り上げた。どこからかひとりの男性が画面に忍び入る。彼女に近付くために歩いている。そっと背中を男性の手が叩いて、いつみさんは振り返る。いつみさんの眼にする男性はいったい誰なのだろう? やはり、それはぼくであるべきだった。その姿は、それでも幻のようだった。先程までの姿ではない。未来のいつの日にか訪れる予知夢のなかの出来事のようでもあった。

「なにか、欲しくて、熱望してるものでもあるんですか?」
「敬語を交えない男の子との会話だよ」
 いつみさんは熱そうにコーヒーをすすり、そう言った。距離感の問題のようでもあった。ぼくが両親にきびしく諭された年長者への敬意の結果でもあるらしかった。
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