田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『ボディ・スナッチャー 恐怖の街』『インベージョン』

2019-04-11 11:36:31 | 映画いろいろ

『ボディ・スナッチャー 恐怖の街』(56)(1994.1.)



 宇宙から飛来した巨大な豆のサヤから人間のクローンが次々と生まれ、寝ている間に本物と入れ替わっていく。主人公の医者(ケビン・マッカーシー)は人間でいるために、恋人と共に街を逃げ出すが…。

 原作は我が偏愛の作家ジャック・フィニイ、監督はドン・シーゲルなのに、今まで無理をして見なかったのにはわけがある。劇場未公開でテレビ放映のみ、フィリップ・カウフマン版の『SF/ボディ・スナッチャー』(78)を先に見てしまったこともあるが、この時期に作られたこの手の映画のチープさは周知の事実だし、しかもフィニイ原作の映画化作品は失敗作が多い。つまり原作のイメージを壊されると思ったからである。

 ところが、最近ジョー・ダンテの『マチネー 土曜の午後はキッスで始まる』(93)でこの手の映画のチープさ故の魅力を再発見させられたこともあり、この際、ビデオの力を借りて見ておこうということになった。

 本題の映画の方は、確かにこの映画が作られた当時の社会背景(冷戦、赤狩りによるマスヒステリー)と照らし合わせることもできるが、それらを取っ払って、純粋によくできた“怖い話”としても、迫ってくるところがあった。特撮に頼らず(予算の関係で頼れず?)に人物描写に重点を置いた点が、かえって原作にあった恐怖(実は人間が一番怖い)を増幅させる結果になったのだ。


『インベージョン』(2007.9.21.ワーナー試写室)



 1955年に原作が発表されたジャック・フィニイの『盗まれた街』の4度目の映画化。赤狩り、冷戦といった当時の世相が巧みに取り入れられ、宇宙生命体によるボディ・スナッチ=人体乗っ取りの形を借りてマスヒステリーや人間不信(家族や隣人が外見はそのままで別人になる)の恐怖が描かれた。

 当然、最初に映画化された56年のドン・シーゲル版『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』にはそうした世相が色濃く反映されていたのだが、78年のフィリップ・カウフマン版『SF/ボディ・スナッチャー』になると環境問題が絡められ、93年のアベル・フェラーラ版では軍事基地を舞台に親子関係の不信が背景となった。どんな形にせよ、人間が人間に対して抱く不信感が一番怖いということか。

 そして今回は未知の病原体、政府の隠滅といった恐怖を軸に、主人公の医師を二コール・キッドマン扮するシングルマザーに代えるなど、より現代風なアレンジがなされている(78年版に出ていたアンジェラ・カートライトがゲスト出演)。

 ドイツ人監督、オリバー・ヒルシュビーゲルが無機質で不気味な感じをよく出していたが、ジョエル・シルバー印の派手なアクションと取って付けたようなラストがちょっと残念だった。

 この手の映画や吸血鬼ものなどを見ると「迷わず、逆らわずに仲間になった方がむしろ幸福なのではないのか」と思うのだが、実はそう思わされることが一番怖いのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『キュリー夫人』

2019-04-11 06:12:22 | 1950年代小型パンフレット
『キュリー夫人』(43)(1988.7.3.)



 グリア・ガースンとウォルター・ピジョンにとっては『塵に咲く花』(41)『ミニヴァー夫人』(42)に続く3度目の共演作。日本では1946年に、アメリカ映画輸入再開第1号として『春の序曲』とともに公開された。監督はマービン・ルロイ。

 キュリー夫妻のラジウム発見の物語は、小学校の教科書で知った覚えがあるが、この映画はそうした科学的な功績よりも、古き良き夫婦愛の姿を中心に描いている。映画の端々で「ドリーム」という言葉が語られ、スラングのないきれいな英語が全編にあふれる。甘い、古いと言われようが、やはりこうした古き良き映画には捨て難い魅力がある。

 また、『風と共に去りぬ』(39)などを例に出すまでもなく、この映画を見て、改めて、アメリカは戦時中であるにもかかわらずこんな映画を作っていたのか…という思いがした。

グリア・ガースン


ウォルター・ピジョン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする