1994年4月の出来事
エルンスト・ルビッチ特集上映時に、ビリー・ワイルダーをけなしたのに続いて、プレストン・スタージェス特集にかこつけて、蓮實重彦がまたやった。今度はプレストンを持ち上げたいばかりに、あろうことかジョン・スタージェスを貶めたのである。
「あなたが「茫然自失」という言葉の意味するものを身をもって体験したければ、ひたすらスタージェスの名をつぶやきながら、映画館にかけつければよい。もちろん、ファーストネームはジョンではなく、プレストンのほうだ。~日本ではジョンを名乗る同姓の二流作家が結構もてはやされもしたのだから…」だと。
ルビッチとワイルダーは、師匠と弟子のような関係だから、まだ分からなくもないが、プレストンとジョンは、同姓というだけで、作風も違う。確かにプレストンの作品が日本ではあまり上映されていない不幸はあるが、それとジョンとは何の関係もない。これは単なる言いがかりだ。
ところが、これに付和雷同した蓮實の一派がジョンの映画をけなし始めるという、めちゃくちゃな事態が生じた。いやはや、ここまでくると恐ろしくなる。これは、映画ジャーナリズムにそれなりの発言力や影響力を持つ者が、やってはいけないことではないのか。
【その後】
瀬戸川猛資氏が『シネマ古今集』で「“二流作家”ジョン・スタージェスのファンとしては、こういう文章を読むとうれしくなる。ジョンの一連の秀作が、ルビッチ馬鹿やプレストン馬鹿の魔手から逃れられるからだ。付和雷同分子の雑音に悩まされることなく、心ゆくまで彼の映画を満喫する絶好のチャンスである」
川本三郎氏が『ロードショーが150円だった頃』で「その旧作が公開されることになって“いまプレストン・スタージェスが面白い”とやかましいが、スタージェスといえば大学の先生がなんといおうがもうひとりのジョン・スタージェスのほうだ。映画といえば西部劇、西部劇といえばジョン・スタージェスの時代があったことを忘れてはいけない」と皮肉を込めて書いてくれたので、多少溜飲が下がったことを覚えている。
『結婚哲学』(24)『生きるべきか死ぬべきか』(42)(1993.6.)
最近、ビデオの発売や一部の劇場での上映によって改めて見直されているエルンスト・ルビッチの映画。ただ、蓮實重彦氏が、ルビッチを持ち上げたいばかりにビリー・ワイルダーを貶めたり(彼のいつもの手だ)、リアルタイムではルビッチを見ていないはずの彼の一派が尻馬に乗って「昔からルビッチは…」などと訳知り顔で語る風潮には腹が立つ。
『結婚哲学』は、離婚を考えている倦怠期の夫婦と相思相愛のカップルが入り乱れて繰り広げる悲喜劇で、それまではドタバタが主流だったサイレントコメディに、ヨーロッパ的な倦怠や退廃を持ち込んだ傑作とされるが、ルビッチはチャップリンの『巴里の女性』(23)に感化されて、この映画を撮ったとのこと。
『生きるべきか死ぬべきか』は、第二次大戦直前のワルシャワを舞台に、「ハムレット」で主役を演じる夫妻が、ポーランドを救うために、ナチスのスパイを相手に大芝居を打つという、ルビッチが故国・ドイツを皮肉った風刺コメディの傑作で、“幻の”キャロル・ロンバードの存在感の大きさも教えてくれるが、これも、同じくナチス=ヒトラーを強烈に皮肉ったチャップリンの『独裁者』(40)の方が先に作られている。
随分と変な言い方になったが、これは決してルビッチが嫌いだからとか、彼の映画がつまらなかったから、というわけではない。むしろとても面白い映画が見られてうれしいのに、妙な輩の声が水を差すからちょっと嫌味を言ってみたのである。
蓮實氏のような、誰かを持ち上げたいために他の誰かを貶めるという手法はとても便利だが、それは誤解を生じさせるばかりでなくとても醜い、と自戒の意味も込めて思うのだ。例えば、この場合は「ルビッチもワイルダーもチャップリンも、互いに影響し合って、皆が素晴らしい映画を遺してくれた」でいいではないか。これからはそういう言い方をしませんか蓮實さん。
最近、ビデオの発売や一部の劇場での上映によって改めて見直されているエルンスト・ルビッチの映画。ただ、蓮實重彦氏が、ルビッチを持ち上げたいばかりにビリー・ワイルダーを貶めたり(彼のいつもの手だ)、リアルタイムではルビッチを見ていないはずの彼の一派が尻馬に乗って「昔からルビッチは…」などと訳知り顔で語る風潮には腹が立つ。
『結婚哲学』は、離婚を考えている倦怠期の夫婦と相思相愛のカップルが入り乱れて繰り広げる悲喜劇で、それまではドタバタが主流だったサイレントコメディに、ヨーロッパ的な倦怠や退廃を持ち込んだ傑作とされるが、ルビッチはチャップリンの『巴里の女性』(23)に感化されて、この映画を撮ったとのこと。
『生きるべきか死ぬべきか』は、第二次大戦直前のワルシャワを舞台に、「ハムレット」で主役を演じる夫妻が、ポーランドを救うために、ナチスのスパイを相手に大芝居を打つという、ルビッチが故国・ドイツを皮肉った風刺コメディの傑作で、“幻の”キャロル・ロンバードの存在感の大きさも教えてくれるが、これも、同じくナチス=ヒトラーを強烈に皮肉ったチャップリンの『独裁者』(40)の方が先に作られている。
随分と変な言い方になったが、これは決してルビッチが嫌いだからとか、彼の映画がつまらなかったから、というわけではない。むしろとても面白い映画が見られてうれしいのに、妙な輩の声が水を差すからちょっと嫌味を言ってみたのである。
蓮實氏のような、誰かを持ち上げたいために他の誰かを貶めるという手法はとても便利だが、それは誤解を生じさせるばかりでなくとても醜い、と自戒の意味も込めて思うのだ。例えば、この場合は「ルビッチもワイルダーもチャップリンも、互いに影響し合って、皆が素晴らしい映画を遺してくれた」でいいではないか。これからはそういう言い方をしませんか蓮實さん。