『ゴジラVSデストロイア』(95)(1996.1.25.渋谷宝塚)
前作『VSスペースゴジラ』(94)は、結局映画館に足を運ぶ気になれず、義理のような気持ちでビデオで見た。そして予想通りのシリーズ最悪の出来に、まあネタも尽きたことだし、こちらは勝手に「お休みゴジラ」と記したのだが、敵もさるもの。再度大森一樹にシナリオを書かせ、オリジナルの『ゴジラ』(54)を徹底的に意識した平成版ゴジラへの“鎮魂歌”のような映画を作ってしまった。冒頭から、ぶくぶくに太って肥大化し、溶鉱炉のように体を赤くしたゴジラが現れ、やがてゴジラ自体が核分裂を起こして溶けていくのである。これには驚いた。
これはゴジラという素材を扱い切れなくなった作り手たちの苦肉の策という見方もできるが、幼い頃からゴジラに親しんできた者としては、手を替え、品を替え、何度も復活させられ、さまざまな敵と闘わされ、最後は自爆するしかなくなったゴジラの姿が妙に切なく、悲しく映った。この切なさや哀れさは、初期の『ゴジラ』や『ラドン』に感じた思いとも似ていて、結局は元に戻っただけじゃないかとも思った。
ところで、ミニラもどきのリトルを、ゴジラもどきのジュニアとして生き残らせたこの映画のラストは、作り手たちの救いの気持ちを反映させたものか、それとも何年後かの復活を見越したたくましい商魂によるものか。寂しい気持ちもあるが、この際、復活の余地のない終わりにすべきだったのではないかと思う。
【今の一言】予想通り、4年後の『ゴジラ2000 ミレニアム』(99)からミレニアムシリーズが作られたが、もはやきちんとは見なかった。
前作『VSスペースゴジラ』(94)は、結局映画館に足を運ぶ気になれず、義理のような気持ちでビデオで見た。そして予想通りのシリーズ最悪の出来に、まあネタも尽きたことだし、こちらは勝手に「お休みゴジラ」と記したのだが、敵もさるもの。再度大森一樹にシナリオを書かせ、オリジナルの『ゴジラ』(54)を徹底的に意識した平成版ゴジラへの“鎮魂歌”のような映画を作ってしまった。冒頭から、ぶくぶくに太って肥大化し、溶鉱炉のように体を赤くしたゴジラが現れ、やがてゴジラ自体が核分裂を起こして溶けていくのである。これには驚いた。
これはゴジラという素材を扱い切れなくなった作り手たちの苦肉の策という見方もできるが、幼い頃からゴジラに親しんできた者としては、手を替え、品を替え、何度も復活させられ、さまざまな敵と闘わされ、最後は自爆するしかなくなったゴジラの姿が妙に切なく、悲しく映った。この切なさや哀れさは、初期の『ゴジラ』や『ラドン』に感じた思いとも似ていて、結局は元に戻っただけじゃないかとも思った。
ところで、ミニラもどきのリトルを、ゴジラもどきのジュニアとして生き残らせたこの映画のラストは、作り手たちの救いの気持ちを反映させたものか、それとも何年後かの復活を見越したたくましい商魂によるものか。寂しい気持ちもあるが、この際、復活の余地のない終わりにすべきだったのではないかと思う。
【今の一言】予想通り、4年後の『ゴジラ2000 ミレニアム』(99)からミレニアムシリーズが作られたが、もはやきちんとは見なかった。