『ワーキング・ガール』(88)(1991.1.13.)
ニューヨークの証券会社に勤めるテス(メラニー・グリフィス)は、日々の努力も空しく、学歴の差で秘書どまり。だが、上司の女性部長キャサリン(シガーニー・ウィーバー)が、自分が考えた企画を盗用しようとしているのを知って…。
この映画、コメディ仕立てであるとは知りながら、監督がマイク・ニコルズだと聞いて見るのをためらっていた。今までの彼の作風からして、きっとまたシニカルさに満ちた一筋縄ではいかないものに違いないと勝手に思い込んでいたのだ。ところが、見てみると、何のことはない。まるで日本の植木等主演の「無責任」シリーズのアメリカ女性版のような映画だったのである。
そして、やれ「日本人は働き蜂だ」とか「エコノミックアニマルだ」などと揶揄しながら、アメリカ人だって実によく働いているじゃないか、という印象を持たされた。まあ、その裏には、この映画にも頻繁に登場する日本企業の進出によって、アメリカも昔のようにはいかなくなったという事情もあるのだろう。ロバート・ホワイティングが書いていたが、日本人の勤勉さを他国が手本にする時代が来つつあるのかもしれない。だが高度経済成長やバブル経済が日本を歪めた側面もあるだけに、わざわざ手本にしなくても…という気もする。
ところで、テスはスタテン島からフェリーに乗ってマンハッタンへ通勤するが、カーリー・サイモンが歌う主題歌「レット・ザ・リバー・ラン」が象徴するように、ハドソン川が隔てる両所の位置関係にテスの立場を重ねているとも思える。これは『サタデー・ナイト・フィーバー』(77)で描かれた、橋を隔てたブルックリンとマンハッタンとの関係にも通じるものがあると思われる。
ドン・ジョンソンがこの映画を見て“別れた女房”グリフィスに惚れ直したらしいが、確かにこの映画の彼女はもうけ役をもらって随分得をしている。それとは逆に、敵役のウィーバーが哀れに見えるが、それは彼女の演技がうまいからなのだ。それにしても女の闘いは、男のそれよりも執念深くて恐ろしいということを、この映画を見て改めて実感させられた。
【今の一言】日本がバブル真っただ中で、女性の社会進出が叫ばれ始めた頃に公開された映画だけに、当時はいけいけな感じが受けたのだろうが、それが必ずしも幸せではないとわかった今となっては、何やら空しさを感じる映画だとも言える。