『トッツィー』(82)(1983.3.7.ヤクルトホール)
この映画を監督したシドニー・ポラックは、好きな監督の一人なのだが、最近の『スクープ悪意の不在』(81)の出来はいま一つで、一昔前の『ひとりぼっちの青春』(69)『大いなる勇者』(72)『追憶』(73)『コンドル』(75)などを撮っていた頃の彼とは、ちょっと違うと感じていた。
そのポラックが珍しくコメディを撮り、しかもダスティン・ホフマンが女装して主演すると聞いて、これは!という期待と、大丈夫かな…という心配が入り乱れるという、妙な気分を覚えながら映画を見始めた。
そして、見終わった今、なるほどこの映画がアメリカで大受けしたことは納得できると思った。まずは、演劇界やテレビ界の舞台裏といった一般人が好奇心をかき立てられるところに目を付けた点が大きいのだが、それ以上に、ホフマンの女装が強烈な印象を残す。彼の芸達者ぶりには驚くばかりである。
しかも、大スターの彼が女装をすることで、ゲイだのレズだのといった、今のアメリカを揺るがせている問題を痛烈に皮肉ることにも成功している。恐らく、アメリカで大受けした最大の理由はここにあるのだろう。
と、ここまでは、ポラック先生がホフマンの力を借りて見事に復活したと言えるのだが、この映画をラブストーリーとして見ると、少々疑問が残った。
それは、テリー・ガーが演じた元恋人の売れない女優サンディに対する主人公マイケルの接し方にあった。ここではこの男のエゴが露呈され、見ていてあまりいい気持がしない。マイケルが女装をして“女優ドロシー・マイケルズ”としての自分を見つめた時に、女性の気持ちが分かるようになり、やがて男に戻った彼は、憧れの美女ジュリー(ジェシカ・ラング)とゴールインのハッピーエンドでは、サンディの存在があまりにも哀れ過ぎるのだ。
女性の気持ちが分かるようになったからこそ、今まで冷たくしてきたサンディのもとへ戻っていく、というラストの方が良かったと思うのだが…。まあ、コメディ映画なのだから、十分に笑わせてくれたというだけでいいのかもしれないが。
ところで、この映画は知人から試写会の券をもらって見たのだが、関係者優先という態度に怒りを覚えた。我々一般人は早目に行ったにもかかわらず、満席だと言われて立ち見になったのだが、実は真ん中の一番見やすい席が多数空いていたのだ。そこに、開映間際になって余裕でやってきて、何の苦労もなく特等席に座られたのでは、オレたちがあまりにも滑稽ではないか。
【今の一言】40年前の自分の素直な気持ちだが、試写で映画が見られるようになった今の自分には耳が痛い。