『底抜け大学教授』(63)
変身前後のギャップが見どころ
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/bfab7199d35ba62fb72f5e3fb9744b99
底抜けシリーズ2
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/430dd7c84afcfa4a45871fbd31629e46
『底抜け大学教授』(63)
変身前後のギャップが見どころ
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底抜けシリーズ2
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『グロリア』(80)(1981.6.22.)
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『チャンス』(79)
言葉の意味は、聞く側の解釈によっていかようにも変化する。だから、それが一国の政治に関わるようなことなら、よほど選んで発言しなければならないだろう。そこにはさまざまな思惑が含まれ、本音と建前がある。また、影響力のある人物が発言すれば、それが正しいこととして解釈されたりもする。
この映画は、そんな状況を、見事に皮肉っている。言葉の勘違いと言ってしまえばそれまでだが、実際にこの映画のようなことがあれば(必ずしも起きないとは言えない)、それは勘違いという一言では済まされないだろう。
何しろ、政治に全く関係のない一介の庭師が大統領に対して影響力を持ち、やがてはその対抗馬にまでされてしまうのだから。それも本人の意思ではなく、勝手に勘違いした周りが、そう仕向けているのだから怖い。
だから、見ながら笑った後で、ふと「おや?」という気持ちになる。これは笑っているだけでは済まないぞという感じだ。
また、テレビばかりを見て暮らしてきた主人公のチャンスのズッコケぶりも、よく考えたら笑うに笑えない。それは、チャンスや彼の周りの人々のどこかに、自分を見る思いがするからなのかもしれない。
チャップリンの映画もそうだが、優れた喜劇映画に風刺は不可欠なのだ。その意味では、ハル・アシュビー監督大健闘の一作である。
チャンス役のピーター・セラーズがお見事。あの「ピンク・パンサー」シリーズのクルーゾー警部とは打って変わった抑えた演技を見せる。改めてその芸達者ぶりを知らされ、亡くなったことが惜しまれた。