『クルージング』(80)(1981.7.4.オールナイト)
ゲイの男たちが被害者となった連続殺人事件の捜査のため、おとり捜査でゲイの世界に潜入した警官スティーブ・バーンズ(アル・パチーノ)が、葛藤しながらも、やがてゲイの世界の熱気に取り込まれていく様子を描く。
今までも、ゲイを扱った映画はあったが、これほど直接的に、その世界を見せられたのは初めてだった。『フレンチ・コネクション』(71)『エクソシスト』(73)など、見世物的な映画を作らせたらなかなかのウィリアム・フリードキンが監督しただけに、かなりハードな描写があった。特に、秘密ゲイバーで繰り広げられる狂態はすさまじかった(フリードキンが同じくゲイを扱った『真夜中のパーティ』(70)は未見)。
一体、何が彼らをこうした世界に引き込むのだろう。最初の殺人事件の被害者と犯人との間でこんな会話があった。「どうしてこんな所に来たの?」「愛が欲しいからさ」。つまり、愛に飢えた男たちの行き着く先ということなのか。いずれにしても、自分の理解の及ばないところで、こうした世界が歴然と存在していることだけは確かだ。
この映画の主人公のスティーブのように、全くその気がなくても、その世界に染まってしまう怖さが描かれる。男の精神の奥底に、こうした欲望が隠れているのだろうか。それが、何かのはずみで現れてくるのだとしたら、自分だって分からないと思わされる。あな恐ろしや。
パチーノには、本当に感心してしまう。ちょっと病的な役をやらせたら、彼の右に出る者はいないだろう。だからこそ、今の病めるアメリカに、彼の存在価値があるのだろう。
【今の一言】今なら珍しくもない題材だろうが、40年前は奇異なものとして捉えられていた気がする。隔世の感がある。
『ラスト・ワルツ』(78)
ザ・バンドが、1976年11月25日にサンフランシスコのウインターランドで行った解散ライブの模様を記録したドキュメンタリー映画。監督はマーティン・スコセッシ。
ザ・バンドのことはよく知らなかったので、もっとハードロックっぽいものを勝手に想像していたのだが、どうして、どうして、さまざまな音楽の要素がぶち込まれたライブの記録だった。まあ、彼らに言わせれば「さまざまな音楽の行き着く先がロックだ」となるのだから、当然なのだろうけど。
それにしても集まったメンバーのすごいこと。主役のザ・バンド(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ、レボン・ヘルム)のほか、相変わらず病的なニール・ヤングとジョニ・ミッチェル、ヴァン・モリソンとニール・ダイヤモンドの圧倒的な声量、ロックギターの雄・エリック・クラプトンとロバートソンとの競演、黒人ブルースのマディ・ウォーターズまでもが顔を出し、最後は大御所・ボブ・ディランが登場し、おまけにロン・ウッドとリンゴ・スターがくっ付いて…。よくもまあ、これだけ集まったものだ。
『ウッドストック』が示した、ジャンルを超えた音楽の力や連帯感、エネルギーのぶつかり合いが、この映画でも見られた。加えて、ザ・バンドの面々の生きざまを、彼ら自身が語っていく。
そこには自然と、プレスリー、ベトナム戦争、ニューヨークの魔力といった話題が飛び出し、何となくアメリカの現代史が浮かび上がってくるところが興味深かった。そして、見終わった後は、心地よい疲労感を覚え、映画ではなくコンサートを見たような気持ちになった。
何と、この映画は、マイケル・チャップマン、ラズロ・コバックス、ビルモス・ジグモンド、ヒロ・ナリタら、7人のカメラマンが撮ったらしい。なるほど、あの臨場感の秘密はここにあったのだ。一つだけ残念だったのは、曲の訳詞が字幕で出なかったことだ。
『アメリカン・ジゴロ』(80)
ビバリーヒルズで金持ち女を相手に生きる高級ジゴロのジュリアン(リチャード・ギア)は、上院議員夫人のミシェル(ローレン・ハットン)と出会い、彼女を愛し始めるが、殺人事件に巻き込まれてしまう。
『タクシードライバー』『愛のメモリー』(76)などの脚本を書いたポール・シュレイダーの監督作だが、失望させられた。ただただ、しゃれたファッションと主人公のカッコ良さに、妬みを感じながら見とれるだけ。人物描写もしっくりこないし、脚本作に見られた病根を掘り出すような鋭さもなく、ただうわべの華やかさを追っているだけのような気がする。
だから、ジュリアンが無実の罪で逮捕された時も、全く同情は湧かず、むしろ「ざまあみろ」みたいな気持ちになった。まあそこが、上流階級やうその世界でしか生きられないジュリアンへの強烈なしっぺ返しになっているのかもしれないが…。
最も印象に残ったのは、主題歌となった、ブロンディの「コール・ミー」だった。