今朝のすがすがしさ、
先日までの真夏日続きの反面か、気持ちの良い朝、
坐禅の苦しみ?など、感ずることなく快調。
禅堂前の梵鐘付近は「高砂百合」が咲き乱れる、
季節の移ろいでしょう。
10分も早く参上、すでに老師と女性3名が坐に着いている、
到着と同時に私も坐に着く。
いつものメンバーがほぼそろった時。
老師から「これから梵鐘を撞きます、その間、屋外にいるも良し、
体の位置などじっくり整えなさい」と。
老師の撞かれる「般若心経の読経と梵鐘の音」は、いつもの通り。
席に戻られた老師は、無言の「検単」。
小鐘3つは正式坐禅スタート、
そして40分・1烓(いっちゅう)は、全くの無言、
坐中のお話が無いと、時間が長く感ずる。
(蝉やキリギリスの声は聞こえず、カラスの鳴き声のみであとは静寂)
鐘1つでおしまい。
足を解き、坐蒲の始末途中にお話しが始まった、
どんな姿勢でお聞きするといいのか、
とりあえず胡坐座り。
足を解くと、つらさや苦痛が無くなり、いずれそれは忘れてしまう、
季節に置き換えると、涼しくなりいずれ寒くなる、と、猛暑のつらさが薄れ
いずれ忘れる、同時に寒さが身にしむ、
仏様は、「この世は、すべて所業無常である」と説かれる。
何事も止まり固定していることはない、四季の移ろいを知り
所業無常を味わう。
すなわち、苦しみはいつまでも続くものでなく終わる、
と、楽しみがくる、また楽しみもいつまでも続くものでなく
また苦しみが訪れる。
「行持道環(ぎょうじどうかん)」(参禅者と仏とが坐禅を通じて一体となること)
そうした変化を信じていけるかどうか、
そのことがわかるのが「坐禅」である、
自分で納得する生活、道を知る。
それがお釈迦様のお勧めである。
と結ばれた。
坐禅も15年目になりました、足の痛さなど感じませんが、
老師の座中のお話が少なくなったのは
さみしい思いです。
お心遣いありがとう存知ます、
優婆夷さんもお大事に。
私は昨夜は8時前に寝てしまい今朝は早起きだったので一番乗りでした\(^o^)/
お寺に着いた時には老師はすでにお坐りでした。
すこし肌寒かったので、坐禅のあとの温かいお茶がおいしかったです。
季節の変わり目は特に御自愛してください。