正統性の確保をどのように行っているか、について。
国会議員は、国政選挙によってその正統性を得る。それは、所属する選挙区や方法に依存するだろう。
だから、比例代表出身の議員は、離党してその個性的な政治的主張を実現することを道義的に許されがたい。
読売新聞 民主・鈴木貴子衆院議員の引き抜き、自民が検討 2016年01月31日 20時03分
「自民党が、民主党の鈴木貴子衆院議員(比例北海道)の引き抜きを検討していることがわかった。次期衆院選で公認候補とすることも検討している。自民党幹部が31日、明らかにした」
…そりゃ国会議員としての資格はみな共通なので、離党云々の判断は議員の決断によるところが大きいだろうが。この場合、支援団体の確保もできそうであって―
「鈴木氏の父の宗男氏は、北海道に一定の影響力を持つ地域政党「新党大地」代表を務め、4月の衆院北海道5区補欠選挙で自民党候補を支援する考えを表明している」
…当選も可能だろうが、まあちょっとなあ、と思われることだろう。
ともあれ、では、首相もそうした国会議員の一人であって、その限りではその選挙区を代表するくらいの正統性しかない。
が、最大党派の主だったり、議会多数派をとりまとめる位置から首相の座を射止め、そういう形で”全国の選挙民の代表”という正統性を得ることになるだろう。そうしてその地位に付随するさまざまな権限は制度的に保障されている。
さて、そうした首相に対する非難は多々あるが、なんで首相個人に対する関心が高まっているかというのは、制度改革で首相の権限がつよくなり、
「…二〇一三年以降には、政権の安定とともに外交・安全保障分野を中心に従来とは異なった政策への積極的取り組みが目立つようになり、首相官邸が過剰に主導する「決めすぎる政治」という揶揄さえ登場したのである」(待鳥『代議制民主主義』p.193)
というわけだ。
…ちょうどそこを読んでここのコメント欄に「いまは、いままで慣れ親しんできた体制の大変革期のようで、そのあれこれが彼の責任のように誤解していたりするんじゃないかしら」とメモしたことを思い出したことである(個人的雑感)。
ともあれ、彼に対する批判は―ポピュリズム的に多数派を占めて、制度的に強権を振るえるようにしてこの姿というのは、非常にナチズム的、ヒトラー的である、というもののようである。
では、こうした批判者はどのように自己の正統性を調達するのだろう。典型的には「国際社会」「国連」の「反応」「勧告」を用いるものだろうが―最近は「民主主義」という概念を用いることも多いようである。
とはいえ、国会議員さんがたの正統性は他ならぬ我々の投票行動から一定程度以上確保され・調達されているわけであり、してみると首相の正統性も民主主義的に皆無だ(「民意を反映していない!」)などとはいえない理屈だろう。
産経新聞 民主がまた「安倍首相はヒトラー」批判 小川参院幹事長「だんだん似てきた」 市民連合の会合で 2016.1.23 19:14
「維新の党の初鹿明博国対委員長代理は「今の日本は民主国家ではない。民主主義も憲法も全て否定するような政権は倒さなければならない」と訴え、社民党の吉田忠智党首も参院選の1人区での野党協力を呼び掛けた」
貴君が民主主義的に選出されたのと同じ制度で首相も選出されたんですが。
しかしともあれ、首相をヒトラー的な、あるいはそうなろうとしている存在とする見解はかくのごとく:
「民主党の小川敏夫参院幹事長は23日、夏の参院選で野党を支援する市民団体系の組織「市民連合」が都内で開いた会合であいさつし、「安倍晋三首相はだんだんヒトラーに似てきた。中身がなくて、ただ言葉だけ美しい」と首相を批判した。小川氏は「ヒトラーといえば、(かつて麻生太郎)財務相が『ナチスの手口を学べ』と言った。全くその手口を学んで、今度は実行している。ひどい話だ」と主張。その上で「ナチスの手口に『どんな嘘やバカなことでも繰り返し繰り返し自信をもって言え。そうすると、だんだん国民がついてくる』というのがある。首相はその手口をまっしぐらに進んでいる。本当に危険を感じる」と訴えた」(引用元同上)
しんぶん赤旗 きょうの潮流 2016年1月26日(火)
「「大規模災害のような緊急時に国民の安全を守るため」。いま安倍首相は大災害やテロなどを口実に、首相権限の強化や国民の権利制限をねらう「緊急事態条項」で明文改憲に乗り出す構えです。ヒトラー全権委任法の名称は「国民と国家の苦境除去のための法」でした▼災害とか国民の苦境とか、もっともらしい口実で緊急事態をあおりたてる。「一刻の猶予もない」とあおるのは暴走する政治家の常套(じょうとう)句、という警句を胸に刻みたい」
となると、ヒトラーとなりかけている者を止めるのは歴史的な責務といえよう。
ではそうした場合、そうした行動者はどこから正統性を調達するだろうか。「民主主義」の理念・概念や、「歴史」の警告、「人類普遍の歴史的責務」といったあたりだろうか。
なるほど、我々はしばしばそうしたスローガン等々に賛意を表すことがあるだろう。とりあえず、ご存命の例でいえば某大エクソダスの発生元の国の大統領とか、除去したほうがええんちゃうやろか、と思われよう。
但し、そうした歴史の断罪が正当化されるかどうか、そういうのはむしろ事後的に決定するものだろう。事前に確信できる例は少なく、確信してやったはいいがパンドラの箱をあけてしまって―「うん、確かに大悪魔を滅ぼしたということに限っては正しかった。しかし中悪魔と小悪魔をやたらにぶちまけたよね」という具合になることもあって、果たして収支はあったものやら(尤も、ここまで話に含めると、議論が拡散するが)。
ともあれ、してみると、「歴史的責務」「民主主義」云々といった概念に没入する場合、その内容がかならずしも明らかではなく、没入しようとする主体の恣意的な定義等々に影響をうけることが多々あることは注意点であり―
―ここまでくると、そうした”偉大なる概念”に没入して、”それ以外”に諸種の影響力を及ぼそうという形式は、それこそナチズムのころに良く観察されたことであるなあというイヤ気な歴史に気付くかもしれない。「総統の御意志だ!」という決め台詞は多数用いられただろうし、まあわが国では「ご聖断」「統帥権」やらという用語法もあったことである。
とするとこう疑問をたてることができるかもしれない、「なるほど、首相は手法においてナチス的であるかもしれない。しかしその批判者はその精神において・論理の構築法においてナチス的ではないか?」。つまり、ある聞こえのいい概念をスローガンに用い、それへの無批判的な没入を果たしてその概念の”代弁者”の地位を身にまとい、そのうえで他者を攻撃するという構想の点で。
2/2追記
「抜群にアタマいい人」という表現は、それこそ手垢がつきまくった表現だが、適切に用いられるとなんと効果的であることか、と思えたのでメモ。
国会議員は、国政選挙によってその正統性を得る。それは、所属する選挙区や方法に依存するだろう。
だから、比例代表出身の議員は、離党してその個性的な政治的主張を実現することを道義的に許されがたい。
読売新聞 民主・鈴木貴子衆院議員の引き抜き、自民が検討 2016年01月31日 20時03分
「自民党が、民主党の鈴木貴子衆院議員(比例北海道)の引き抜きを検討していることがわかった。次期衆院選で公認候補とすることも検討している。自民党幹部が31日、明らかにした」
…そりゃ国会議員としての資格はみな共通なので、離党云々の判断は議員の決断によるところが大きいだろうが。この場合、支援団体の確保もできそうであって―
「鈴木氏の父の宗男氏は、北海道に一定の影響力を持つ地域政党「新党大地」代表を務め、4月の衆院北海道5区補欠選挙で自民党候補を支援する考えを表明している」
…当選も可能だろうが、まあちょっとなあ、と思われることだろう。
ともあれ、では、首相もそうした国会議員の一人であって、その限りではその選挙区を代表するくらいの正統性しかない。
が、最大党派の主だったり、議会多数派をとりまとめる位置から首相の座を射止め、そういう形で”全国の選挙民の代表”という正統性を得ることになるだろう。そうしてその地位に付随するさまざまな権限は制度的に保障されている。
さて、そうした首相に対する非難は多々あるが、なんで首相個人に対する関心が高まっているかというのは、制度改革で首相の権限がつよくなり、
「…二〇一三年以降には、政権の安定とともに外交・安全保障分野を中心に従来とは異なった政策への積極的取り組みが目立つようになり、首相官邸が過剰に主導する「決めすぎる政治」という揶揄さえ登場したのである」(待鳥『代議制民主主義』p.193)
というわけだ。
…ちょうどそこを読んでここのコメント欄に「いまは、いままで慣れ親しんできた体制の大変革期のようで、そのあれこれが彼の責任のように誤解していたりするんじゃないかしら」とメモしたことを思い出したことである(個人的雑感)。
ともあれ、彼に対する批判は―ポピュリズム的に多数派を占めて、制度的に強権を振るえるようにしてこの姿というのは、非常にナチズム的、ヒトラー的である、というもののようである。
では、こうした批判者はどのように自己の正統性を調達するのだろう。典型的には「国際社会」「国連」の「反応」「勧告」を用いるものだろうが―最近は「民主主義」という概念を用いることも多いようである。
とはいえ、国会議員さんがたの正統性は他ならぬ我々の投票行動から一定程度以上確保され・調達されているわけであり、してみると首相の正統性も民主主義的に皆無だ(「民意を反映していない!」)などとはいえない理屈だろう。
産経新聞 民主がまた「安倍首相はヒトラー」批判 小川参院幹事長「だんだん似てきた」 市民連合の会合で 2016.1.23 19:14
「維新の党の初鹿明博国対委員長代理は「今の日本は民主国家ではない。民主主義も憲法も全て否定するような政権は倒さなければならない」と訴え、社民党の吉田忠智党首も参院選の1人区での野党協力を呼び掛けた」
貴君が民主主義的に選出されたのと同じ制度で首相も選出されたんですが。
しかしともあれ、首相をヒトラー的な、あるいはそうなろうとしている存在とする見解はかくのごとく:
「民主党の小川敏夫参院幹事長は23日、夏の参院選で野党を支援する市民団体系の組織「市民連合」が都内で開いた会合であいさつし、「安倍晋三首相はだんだんヒトラーに似てきた。中身がなくて、ただ言葉だけ美しい」と首相を批判した。小川氏は「ヒトラーといえば、(かつて麻生太郎)財務相が『ナチスの手口を学べ』と言った。全くその手口を学んで、今度は実行している。ひどい話だ」と主張。その上で「ナチスの手口に『どんな嘘やバカなことでも繰り返し繰り返し自信をもって言え。そうすると、だんだん国民がついてくる』というのがある。首相はその手口をまっしぐらに進んでいる。本当に危険を感じる」と訴えた」(引用元同上)
しんぶん赤旗 きょうの潮流 2016年1月26日(火)
「「大規模災害のような緊急時に国民の安全を守るため」。いま安倍首相は大災害やテロなどを口実に、首相権限の強化や国民の権利制限をねらう「緊急事態条項」で明文改憲に乗り出す構えです。ヒトラー全権委任法の名称は「国民と国家の苦境除去のための法」でした▼災害とか国民の苦境とか、もっともらしい口実で緊急事態をあおりたてる。「一刻の猶予もない」とあおるのは暴走する政治家の常套(じょうとう)句、という警句を胸に刻みたい」
となると、ヒトラーとなりかけている者を止めるのは歴史的な責務といえよう。
ではそうした場合、そうした行動者はどこから正統性を調達するだろうか。「民主主義」の理念・概念や、「歴史」の警告、「人類普遍の歴史的責務」といったあたりだろうか。
なるほど、我々はしばしばそうしたスローガン等々に賛意を表すことがあるだろう。とりあえず、ご存命の例でいえば某大エクソダスの発生元の国の大統領とか、除去したほうがええんちゃうやろか、と思われよう。
但し、そうした歴史の断罪が正当化されるかどうか、そういうのはむしろ事後的に決定するものだろう。事前に確信できる例は少なく、確信してやったはいいがパンドラの箱をあけてしまって―「うん、確かに大悪魔を滅ぼしたということに限っては正しかった。しかし中悪魔と小悪魔をやたらにぶちまけたよね」という具合になることもあって、果たして収支はあったものやら(尤も、ここまで話に含めると、議論が拡散するが)。
ともあれ、してみると、「歴史的責務」「民主主義」云々といった概念に没入する場合、その内容がかならずしも明らかではなく、没入しようとする主体の恣意的な定義等々に影響をうけることが多々あることは注意点であり―
―ここまでくると、そうした”偉大なる概念”に没入して、”それ以外”に諸種の影響力を及ぼそうという形式は、それこそナチズムのころに良く観察されたことであるなあというイヤ気な歴史に気付くかもしれない。「総統の御意志だ!」という決め台詞は多数用いられただろうし、まあわが国では「ご聖断」「統帥権」やらという用語法もあったことである。
とするとこう疑問をたてることができるかもしれない、「なるほど、首相は手法においてナチス的であるかもしれない。しかしその批判者はその精神において・論理の構築法においてナチス的ではないか?」。つまり、ある聞こえのいい概念をスローガンに用い、それへの無批判的な没入を果たしてその概念の”代弁者”の地位を身にまとい、そのうえで他者を攻撃するという構想の点で。
2/2追記
待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書)https://t.co/xAEP75VetT すごーく面白い。手垢がついてるテーマでも抜群にアタマいい人が論じるとスパーっと視界が晴れていくのがとても気持ちいい本です。「民主主義を守れ」を金科玉条にせんとバージョンアップするのに極めて有効
— 増田聡 (@smasuda) 2016, 1月 28
「抜群にアタマいい人」という表現は、それこそ手垢がつきまくった表現だが、適切に用いられるとなんと効果的であることか、と思えたのでメモ。
>「民主主義を守れ」を金科玉条にせんとバージョンアップするのに
なのであって、
>「抜群にアタマいい人」の言葉を金科玉条にする
のではないのです。目的語を取り違えています。
民主主義護持のため、理論闘争をするにあたって、必要な概念を基礎から学びなおすのにとてもよい教科書であるなあ、と言う評価なのだと思います。