京アニの事件、こうなる前に犯人を社会が救済できなかった事が悔やまれる。「犯人をかばう余地がない」と大声で叫ばれてしまう世の中がまだまだ辛いものだと痛感する。ワシはアニメが好きで、動画を見て感動して、アニメーションも作るしそういう漫画を描いていると同時に、精神疾患等の社会的
— 大童 澄瞳 SumitoOwara (@dennou319) 2019年7月20日
補足ですが事件が社会の責任だとワシは思いませんし、そういう趣旨ではありません。「社会が生み出した犯罪」とも思いません。単に国家単位の社会システムにはその様なイレギュラーに対応する総力があるので、社会福祉等によって防げたり軽減したりする可能性があるというのが主な意見です。
— 大童 澄瞳 SumitoOwara (@dennou319) 2019年7月21日
そりゃそれで結構な見解だが、あらゆるひとを包容するためのコストってきっついですからね。極端に外れた値を示す個体を排除するというのは、社会をやってるからには、ほぼ不可避ではあろう。実際のところ。
あらゆる人がいきいきと―とか、宗教や政党の選挙スローガンでは言うだろうが。
もちろん、社会保障・社会福祉―を増強すべきとは私も言うが。
そりゃあ防げたり、軽減されたりもするだろうが。
―「健康で文化的な最低限度」を保証されたとして、さて、それで納得・我慢できるというなら、こうはなっていないわけで。
自己の尊厳の確認というのはかなり社会的な認知によったりするわけだろうし、それはそれで結構希少な資源なのだ―そんな資源の争奪の闘争は、結構キッツイものになるかなあ、とか。
今回の犯人氏の場合、どーも彼の脳内に展開されたらしきイメージをだれかが掬い出し、彼の名で発表してあげればよかった、ということになりかねない。そうなら「パクリ」という罵言はでなかったかもしれない。しかしなあ、ふつうは脳髄を絞って手を動かしたひとに製作者という名誉・社会的認知が発生するんであってなあ。
ふと思い出してしまう『銀河英喩伝説 黎明篇』(創元社文庫版)p.299である:
「「それにはどうするのだ?」
「逆らってはいけません。挫折感や敗北感をあたえてはいけません。誰もが彼の言うことにしたがい、あらゆることが彼の思うようにはこばなくてはなりません」
「……本気で言ってるのかね、軍医?」
「これはわがままいっぱいに育って自我が異常拡大した幼児にときとしてみられる症状です。善悪が問題ではありません。自我と欲望が充足されることだけが重要なのです。したがって、提督方が非礼を謝罪なさり、粉骨砕身して彼の作戦を実行し、勝利をえて彼が賞賛の的となる……そうなってはじめて、病気の原因がとりさられることになります」
「ありがたい話だな」
ビュコックは怒る気にもなれなかった。
「彼のヒステリーを治めるために、三〇〇〇万もの兵士が死地にたたねばならんというのか? 上等な話じゃないかね。感涙の海で溺死してしまいそうだな」
軍医は力なく笑った。」
フォークは排除されねばならなかった。
またたとえば、オウム真理教は排除されねばならなかった。
オウム真理教、松本教祖が奇怪な陰謀論に染まらないためには何が必要だったか? 少なくともまあ、選挙でそれなりの勝利を収める必要があっただろう。その(社会的)コストは誰がどのように担うべきだったというのか。
…ある閾値を超えると、統合を諦められてしまったりするのだ。そしてそれが正当なことだと評価され、納得されてしまうのだ。どこまでが正義に適い、どこからがそうでないのか―それは延々考えられつづけ、今後も考えられていくところのなにものかなのだ。
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