空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

現実の人文系は様々な内容を包含している

2018-01-22 13:43:34 | ノート
 なので、文系といえばシェイクスピアとカントと…くらいしか思いつかないような人は教養がたりないし現実の需給状況もしらないし実際の研究情勢もしらない。そういうひとに「まーこのくらい言っとけばこの文、うれるだろー」とやるのは誠実さがたりない。



 まあこの人については以前メモした評言が当たっていると思うのでとりあえず置く。
 ただし、ちょっと有名人であって、割と(ネット上では)反応があるし、時折動向を注意しておくと良いのだと思う。

 話題にあげられている純丘曜彰氏についても、まあたかが5億で何がどうなるという金銭感覚のないひとだと思われるし、秋田公立美術大とか話題の話に追随して文章を売るタイプのひとなので、ご商売がお上手ですねという感想。

 ともあれ

純丘曜彰 insight 日本に文系学部が必要か? 2015.06.14

日本に大学は782校(2014年度)。大小いろいろながら、全部で2374学部(2008年度)。法学・経済学系を除くいわゆる文系は、およそ700学部。正体不明のキラキラ学部や、心理学・教育学・社会学系も除くと、狭義の文系(文学・人文学・文化学・語学)はおよそ300学部。教員数(助教・助手を含む)は約2万3千名。これらが日本に必要か、という話

いろいろ弁明すべきところもあるが、内情からすれば、文系大学人も、あまりに強欲すぎた。たとえば、日本シェイクスピア協会512名、日本ゲーテ協会350名、日本カント協会290名。文系300学部、平均教員総数77名(助教・助手を含む)の中に、かならず各1名以上のシェイクスピアとゲーテとカントの専門研究者がいる計算

 …日本シェイクスピア協会や日本ゲーテ協会に所属していれば、かならず大学の先生になれるって計算ですか…。この時点で既に破綻している。

 うちの学会(※有力なところ)、適当に開いた4ページに35人の名前があるが、非常勤講師・研究所員・元教授・現役ふくめて17人が大学・研究関係。中高校の先生が1人。この純丘さんってひと,もしかして,学会に関係したことがないかって感じ? すくなくとも,学会の名簿を眺めてみたことはなさそう。

 しかも,もうちょっと小さいところだと…うんまあ。

 ともあれ話をもどして―学会が大学に支配的権力を持っている―とする前提のようだが、私が学長・学部長なら、例えば日本英文学会やバイロン協会…と組んで日本シェイクスピア協会の一元的支配に抵抗しようとするだろう。そして一時のローマ法王のように法王権力もとい大学側の採用権の絶対権を確立しようとするだろう。

だが、二人親称にthouを使うような、日本の室町時代のシェイクスピア古典英語に、いまどきそれほど需要があるわけがない

 だから日本第二言語習得学会などという、より実務的な主題を扱う方向の学問領域が必要とされたりするんじゃないですかね。ということで、私が実務者養成学校の学長なら以下略。

そもそも教員にしたって、まして学生にしたって、世界中に汗牛充棟の論文が溢れかえっているシェイクスピアやゲーテ、カントの研究なんか、いまさら取り組みようもない。せいぜい新刊洋書の論評をあちこちから寄せ集めて、論文を数ばかりでっち上げ、学生には昨今の英国映画なんか見せているだけ

 いやほんとマジそーゆーの勘弁してもらいたいッスよねー…。

Cinii 純丘 曜彰 ブリコラージュ : レヴィストロース対ココ・シャネル 芸術 : 大阪芸術大学紀要 (35), 79-91, 2012-12 大阪芸術大学

Cinii 映画の見えざる美 芸術 : 大阪芸術大学紀要 (34), 27-36, 2011-12 大阪芸術大学

Cinii Critique of art interpretation: the possibility of art-science 東海大学総合経営学部紀要 (2), 21-28, 2009 東海大学総合経営学部

 3報だけッスか。まあ昔の名前を探るともう少しでますが。

なんでこんなにやる気のない専門分野の教員だらけになってしまっているか

 数年に一報、自分のところの紀要に書いておけば「大学の先生でござい」といえる状況があって(なにしろ一応大量の大学を作り、それなりの教育をする必要から、多少質はどうでも…ということが過去にあったわけだろう)、それに未だに乗っているひとが居残り続けているというのが問題なのと違うか。



 これはちと「んう?」と思ってよいかと思う。まあ,挙げられているお三方のうちおひとりくらいはいいんじゃない?とは思うけど。

 一応、日本の何処に生まれ育ってもそれなりに平等に高等教育を受けられるように…という理想があっての駅弁大学構想なのだろう。だが現実的には運用できないし、できてない。各個地域の課題解決のための地方国立大学、という面はある。
 たとえば秋田大学だが、英文学者はあまり気軽に生きていられない感である。とにかく秋田に貢献すること、秋田の現場と密接に連携すること、秋田で実践的に働けること…が存在意義であると詠っている

 なので、「シェイクスピアが読みたければ東北大にいけ」というのが東北地方の親御さん・子供たちの妥協案ということになろう。

 でまあ、たまに東北大の文系の先生の専門領域をながめてみたりしたのだが―ギリシャ・ラテン読みのひとが分析哲学もしていたり、まあ素人には及びも付かない人たちなので、あげつらおうというひとは注意だ。

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