とりあえず,なんだ。
人間,一日600キロカロリーあれば,取りあえず生存状態を継続することだけは可能らしいことは,ソマリアの難民キャンプに対するOxfamとかの談話でわかるわけで。
これが半分の300キロカロリーになると,流石に『たぶん生き残る人がわりといるだろう,相当数は野垂れ死にするけど』レベルになることは分かるわけで。
生活保護の水準を”生存に必要な位にしろよ”派は『一日あたり600キロカロリー分のフードスタンプを給付しろよ派』と理解していいだろうか(紛争地域脳)。わたしならそんなシステムなど,拒絶するが。
…一日600キロカロリーでは憲法が言うという「健康」の部分さえクリア不可能っぽいので,まあ,一日2000~2400キロカロリーくらいが日本人的に”最低限健康”なあたりでしょうか。となると,この”最低限健康”の水準というのは,相当に相対的であることが感じ取れるわけだ。ソマリアの飢饉時の難民キャンプの許容可能な下限が600キロカロリー位だけど,まさか日本でそれ主張するわけには。
では”文化的”も相対的なんではなかろうか,と,論理を平行移動させて推論を試みるであろう。実際,相対的だ―というのは,中学校で配布されるであろう副読本レベルで書いてある。例えばテレビは「最低限の文化的生活」に入るであろうことは,数十年前の裁判で決着したことになっている(もちろん,今後日本が超没落してネットどころかテレビも碌々ないような超失敗国家化したら,その限りではない―その場合,日本国という統治機構自体が消滅しているだろうけど)。
じゃあ,その「相対的」の線って,どこで決まるの? というわけだ。
必要とされるカロリー・栄養素については,我々は生物としておおむね等質なので,目安を一律押し付けていいだろう。熱量で言えば成人男性に一日あたり2600キロカロリーあれば,十分な活動が可能でしょう,とか。
しかし,この「栄養素」のところ。これ,量については目安はできるでしょう。「摂り方」にも目安はできるでしょう―鶏肉の大根煮でタンパク質がどうこう,繊維質があれこれ,とか。
しかし「摂り方」に強制はできない,少なくともし辛いのは,誰しも納得できるのではないか。―何を・いつ・どれだけ食べるか,まで『お上』から指示される。いやそれ,共産主義国家でさえしないんじゃないのかと。いやドイツ軍包囲下のレニングラードなら別だが,しかしその場合でも(※自己検閲)とか自由裁量はありえたことだろう。それが自由の名に値するかどうかはさておいて。
生物的に,より一律の基準を作り易いだろう食糧関係でさえこうなのだ。「文化的」については,さらに難点が多かろうことが推測されよう。テレビは保障されたとして,どの番組を見るか。新聞講読が保障されたとして,どの新聞を取るか。
いや,テレビ代と新聞代との分をネット代に振り替える,そんな自由も認められるべきではないだろうか。鶏の腿を100g 38円で買うか,ちょっとリッチに胸肉にするか,いや豚コマにするか選べるように(※テレビやネットや新聞は固定的である点,日々の選択に係るお肉選びとは異なるとは言える。この点,即座に指摘できるようなら,その学生の頭の回転の良さを称賛するべきだろう)。
そうしたところ(普段は100g 48円であるところ,特売のお店を見つけて10円安くあげるとか)は,各人の裁量―「自由」なのではないだろうか。「かしこくやりくり」というやつなのではあるまいか。
―だから,「健康で文化的な生活」に必要な総額いくらか=生活保護費を『かしこくやりくりしてくださいね』と言って与えるのは,(時に利あらず没落してしまったが)理性的で自由な市民に対する,たいへん合理的な態度だと,まず考えてみるべきだろう。
目をつむって考えてみよう―自分がそのような立場になったとしたら。
家賃を支払う。
新聞をとる。新聞会社はどこでもいい。しかし,地元にシェアが支配的であって,つまりスーパーの広告がたくさん入っているといい。求人広告もよく入っていることだろう。
特売品を探して買い物。移動は基本,徒歩だ。不幸にして無職だが,しかし時間だけはある。とにかくカロリーだけはとって,行動するためのエネルギーを補給しよう。
ハロワに行く。新聞広告の求人情報と突き合わせて,できるだけ条件のよさそうなところを探そう。
そして,
交通機関を使わず,39円の鶏肉で我慢し,浮かせたお金で「文化的な生活」をより幅広く追求するだろう。だって”条件の良い”職は,より”条件の良い”労働者を求めるからだ。少しでも自分の資質を高めるよう,努力しなければ! いまこの小説に投下する100円(ブックオフだ)は,面接の時に話題になってくれるだろう―話題の映画を,一回くらいは見ておいたほうがいいかもしれない―!
…ただ単に「生存する」だけではない。次の職を得るためにも,最低限「文化的な生活」は必要とされるだろう。なぜなら,職場に必要なのは資材を右から左に動かすだけの機械ではなく,人間だからだ。よし仮に,典型的に所謂「ベルトコンベア的な職場」だったとしよう,しかしそこでも「カイゼン」への提言ができる者こそ,より求められる人材ではないだろうか?
―いや,「無職の自分」の能力を高く見積もり過ぎたかもしれない。私はようやく「ベルトコンベア的労働」をこなすに足りるだけの能力しかないかもしれない。
しかし,ここで顔をあげて考えてみよう―
―今度は会社経営者のように考えてみよう―そういう労働者を常に正社員として維持するのは,これは経営者として厳しい。好景気のときはよいが,不景気のときは,さっさと馘首したい。ちょっとだけ景気が上向いたときには,便利に使いたいがな!
―そこで生活保護の出番だ。良心はあまり痛まず”ツカエナイ”労働者の首を切ることができる。で,まあそんな”ツカエナイ”連中でも,人手が足りない時は雇ってやってもいい! その,間の期間は,生活保護でも失業保険でもある,なんとか切り抜けろ!
…ほんとうに,ほんとうにカツカツっぽいが,しかし生きてはいけそうだ。いや失業保険や生活保護の額にもよるが。
さて,「無知のヴェール」をいまいちどかぶってみよう―賢明でなく・合理的でなく,労働者としての資質に欠けるような,そんな自分だってあり得るわけだ。
没落して,しかも身を養い,(他の人なら資質を上げ,または維持するだけの)費用を一応なんとか賄い得るだけの生活保護費をもらいながら,「かしこくやりくり」出来ないような,そんな自分だ。一時の快楽に負けがちな,そんな自然の法則に従いがちな者であって,一攫千金を夢見るのが想像力の限界であるような。
―ここではじめて,生活保護システムは”パチンコに何もかもつぎ込むだけの阿呆”を養うシステム同然のもののようにあらわれでるわけだ。
しかし,同じ包丁が(旨い)刺身を作り,ウサギちゃん林檎を作り,こんにゃくのパッケージをひらき,或いは殺人の道具にもなりえるように,これは生活保護システム自体の問題ではない。使用法の問題だ。
さあ,どうする? いや,どうしたい? ―そう学生に問いかけてみよう。
―愚者には物を教えればいい! そういう意見があるだろう。
―いや,先生の議論には見落としがある。叩かれるべきは不正な受給者だ,という者もあろう。ここには二種類の区別があるだろうか。積極的に何らかの手法で制度を悪用して,保護費を”ちょろまかして”いる向き(犯罪的な意味での不正受給者)と,単に退嬰的な性向で保護費を享楽に使い果たす向き(フリーライダーの類で,”一般人”が道徳的に犯罪だとして非難したくなる者)とだ。
すると,この問題の枠組みに従えば,対策は三つに分かれるだろうか。つまり,
1. 単に愚かで合理的な生活の仕方が分からず,保護費を不合理に使ってしまう者には生活指導員を宛がう。
→生活指導員を設置するなり,民生委員を増員するなりし,さらに生活指導の権限を与えるべきだ,となろう。なんか個々の生活に国家権力がにじりよって這い寄って染み透ってくるあたり,自由主義者としてかーなーりー気分が悪いが,『カネを出す奴が口を出す』のは理の当然だと押し切ってみよう。
おそらくこういう分類の人って,何らかの事情で教育の場からこぼれおちてしまった人かとも思われる。そうなら,問題は文科省的領域であって,厚労省との連携を深めるべきということになろう。
2. 制度を悪用して―書類の偽造を行ったり,実態にそぐわない内容で申請するなどして―保護費をかすめ取るのは詐欺である。
→警察の領分であって,警察官を増員し,所轄の役所と協同を深めなどして対応すべきものである。
実力装置が強力になって個々の生活に入りこむのは(以下略)だが,まあ詐欺とか犯罪なら仕方ないよね,と思うことにする。
3. 「働きたくないでござる」とばかりに,実は働く能力があり,かつまた働く場所が実はあるにも関わらず退嬰的に浪費する者―最低賃金分ないしそれより上の額を受給し,それを”ただ寝て遊んで”消費する者,こうした者をこそ「我々」は心おきなく罵倒するのであった。彼らを,受給資格を吟味するなり,職業教育を与えるなり―で”締め上げ”たい,それが「我々」の欲望である。
なら,そうすれば宜しい。
行政組織を増員し,指導の権限を与えれば宜しい。寄宿制職業学校でも作るかね。
ということで,今の議論にしたがえば,さしあたり現行制度の手直し程度で一応対応ができると,まあそんな感じに落ち着くかと思われる。
ところで以上の対策の何れにおいても,公務員ないしその相当の人員の増員を意味し,もちろんコストがかかるのである。歳出が増えるのである。
もちろん,フードスタンプだとか,”今までにない,新しい冴えたやり方”を主張するのは結構だが,その場合でも新規事業のためコストはあるし,スタンプは印刷する必要があり,交換が適切に行われるかどうか監視する機関が必要となり,諸種物品の安定的供給のため業者も固定的になり―公務員の増員を意味する上に利権も結構発生しそうで,なんというか,かなり利権団体ばんざい!な感じだったりするだろう。まあno system is perfectとはよく言ったものだ。
―さあ諸君,どうする,どうしたい,或いは―どうなりたい?
…とまあ。「公務員は仕事しない」「先生は,なんかモニタとにらめっこばっかりで仕事してるっぽくない」「気楽に漫談してるだけで給料貰えていいよなー」とか思われがちだが,実は「気楽な漫談」のためにも結構情報収集し話し方の検討もし,空き時間を利用して原稿作りもしていたりするのである。
人間,一日600キロカロリーあれば,取りあえず生存状態を継続することだけは可能らしいことは,ソマリアの難民キャンプに対するOxfamとかの談話でわかるわけで。
これが半分の300キロカロリーになると,流石に『たぶん生き残る人がわりといるだろう,相当数は野垂れ死にするけど』レベルになることは分かるわけで。
生活保護の水準を”生存に必要な位にしろよ”派は『一日あたり600キロカロリー分のフードスタンプを給付しろよ派』と理解していいだろうか(紛争地域脳)。わたしならそんなシステムなど,拒絶するが。
…一日600キロカロリーでは憲法が言うという「健康」の部分さえクリア不可能っぽいので,まあ,一日2000~2400キロカロリーくらいが日本人的に”最低限健康”なあたりでしょうか。となると,この”最低限健康”の水準というのは,相当に相対的であることが感じ取れるわけだ。ソマリアの飢饉時の難民キャンプの許容可能な下限が600キロカロリー位だけど,まさか日本でそれ主張するわけには。
では”文化的”も相対的なんではなかろうか,と,論理を平行移動させて推論を試みるであろう。実際,相対的だ―というのは,中学校で配布されるであろう副読本レベルで書いてある。例えばテレビは「最低限の文化的生活」に入るであろうことは,数十年前の裁判で決着したことになっている(もちろん,今後日本が超没落してネットどころかテレビも碌々ないような超失敗国家化したら,その限りではない―その場合,日本国という統治機構自体が消滅しているだろうけど)。
じゃあ,その「相対的」の線って,どこで決まるの? というわけだ。
必要とされるカロリー・栄養素については,我々は生物としておおむね等質なので,目安を一律押し付けていいだろう。熱量で言えば成人男性に一日あたり2600キロカロリーあれば,十分な活動が可能でしょう,とか。
しかし,この「栄養素」のところ。これ,量については目安はできるでしょう。「摂り方」にも目安はできるでしょう―鶏肉の大根煮でタンパク質がどうこう,繊維質があれこれ,とか。
しかし「摂り方」に強制はできない,少なくともし辛いのは,誰しも納得できるのではないか。―何を・いつ・どれだけ食べるか,まで『お上』から指示される。いやそれ,共産主義国家でさえしないんじゃないのかと。いやドイツ軍包囲下のレニングラードなら別だが,しかしその場合でも(※自己検閲)とか自由裁量はありえたことだろう。それが自由の名に値するかどうかはさておいて。
生物的に,より一律の基準を作り易いだろう食糧関係でさえこうなのだ。「文化的」については,さらに難点が多かろうことが推測されよう。テレビは保障されたとして,どの番組を見るか。新聞講読が保障されたとして,どの新聞を取るか。
いや,テレビ代と新聞代との分をネット代に振り替える,そんな自由も認められるべきではないだろうか。鶏の腿を100g 38円で買うか,ちょっとリッチに胸肉にするか,いや豚コマにするか選べるように(※テレビやネットや新聞は固定的である点,日々の選択に係るお肉選びとは異なるとは言える。この点,即座に指摘できるようなら,その学生の頭の回転の良さを称賛するべきだろう)。
そうしたところ(普段は100g 48円であるところ,特売のお店を見つけて10円安くあげるとか)は,各人の裁量―「自由」なのではないだろうか。「かしこくやりくり」というやつなのではあるまいか。
―だから,「健康で文化的な生活」に必要な総額いくらか=生活保護費を『かしこくやりくりしてくださいね』と言って与えるのは,(時に利あらず没落してしまったが)理性的で自由な市民に対する,たいへん合理的な態度だと,まず考えてみるべきだろう。
目をつむって考えてみよう―自分がそのような立場になったとしたら。
家賃を支払う。
新聞をとる。新聞会社はどこでもいい。しかし,地元にシェアが支配的であって,つまりスーパーの広告がたくさん入っているといい。求人広告もよく入っていることだろう。
特売品を探して買い物。移動は基本,徒歩だ。不幸にして無職だが,しかし時間だけはある。とにかくカロリーだけはとって,行動するためのエネルギーを補給しよう。
ハロワに行く。新聞広告の求人情報と突き合わせて,できるだけ条件のよさそうなところを探そう。
そして,
交通機関を使わず,39円の鶏肉で我慢し,浮かせたお金で「文化的な生活」をより幅広く追求するだろう。だって”条件の良い”職は,より”条件の良い”労働者を求めるからだ。少しでも自分の資質を高めるよう,努力しなければ! いまこの小説に投下する100円(ブックオフだ)は,面接の時に話題になってくれるだろう―話題の映画を,一回くらいは見ておいたほうがいいかもしれない―!
…ただ単に「生存する」だけではない。次の職を得るためにも,最低限「文化的な生活」は必要とされるだろう。なぜなら,職場に必要なのは資材を右から左に動かすだけの機械ではなく,人間だからだ。よし仮に,典型的に所謂「ベルトコンベア的な職場」だったとしよう,しかしそこでも「カイゼン」への提言ができる者こそ,より求められる人材ではないだろうか?
―いや,「無職の自分」の能力を高く見積もり過ぎたかもしれない。私はようやく「ベルトコンベア的労働」をこなすに足りるだけの能力しかないかもしれない。
しかし,ここで顔をあげて考えてみよう―
―今度は会社経営者のように考えてみよう―そういう労働者を常に正社員として維持するのは,これは経営者として厳しい。好景気のときはよいが,不景気のときは,さっさと馘首したい。ちょっとだけ景気が上向いたときには,便利に使いたいがな!
―そこで生活保護の出番だ。良心はあまり痛まず”ツカエナイ”労働者の首を切ることができる。で,まあそんな”ツカエナイ”連中でも,人手が足りない時は雇ってやってもいい! その,間の期間は,生活保護でも失業保険でもある,なんとか切り抜けろ!
…ほんとうに,ほんとうにカツカツっぽいが,しかし生きてはいけそうだ。いや失業保険や生活保護の額にもよるが。
さて,「無知のヴェール」をいまいちどかぶってみよう―賢明でなく・合理的でなく,労働者としての資質に欠けるような,そんな自分だってあり得るわけだ。
没落して,しかも身を養い,(他の人なら資質を上げ,または維持するだけの)費用を一応なんとか賄い得るだけの生活保護費をもらいながら,「かしこくやりくり」出来ないような,そんな自分だ。一時の快楽に負けがちな,そんな自然の法則に従いがちな者であって,一攫千金を夢見るのが想像力の限界であるような。
―ここではじめて,生活保護システムは”パチンコに何もかもつぎ込むだけの阿呆”を養うシステム同然のもののようにあらわれでるわけだ。
しかし,同じ包丁が(旨い)刺身を作り,ウサギちゃん林檎を作り,こんにゃくのパッケージをひらき,或いは殺人の道具にもなりえるように,これは生活保護システム自体の問題ではない。使用法の問題だ。
さあ,どうする? いや,どうしたい? ―そう学生に問いかけてみよう。
―愚者には物を教えればいい! そういう意見があるだろう。
―いや,先生の議論には見落としがある。叩かれるべきは不正な受給者だ,という者もあろう。ここには二種類の区別があるだろうか。積極的に何らかの手法で制度を悪用して,保護費を”ちょろまかして”いる向き(犯罪的な意味での不正受給者)と,単に退嬰的な性向で保護費を享楽に使い果たす向き(フリーライダーの類で,”一般人”が道徳的に犯罪だとして非難したくなる者)とだ。
すると,この問題の枠組みに従えば,対策は三つに分かれるだろうか。つまり,
1. 単に愚かで合理的な生活の仕方が分からず,保護費を不合理に使ってしまう者には生活指導員を宛がう。
→生活指導員を設置するなり,民生委員を増員するなりし,さらに生活指導の権限を与えるべきだ,となろう。なんか個々の生活に国家権力がにじりよって這い寄って染み透ってくるあたり,自由主義者としてかーなーりー気分が悪いが,『カネを出す奴が口を出す』のは理の当然だと押し切ってみよう。
おそらくこういう分類の人って,何らかの事情で教育の場からこぼれおちてしまった人かとも思われる。そうなら,問題は文科省的領域であって,厚労省との連携を深めるべきということになろう。
2. 制度を悪用して―書類の偽造を行ったり,実態にそぐわない内容で申請するなどして―保護費をかすめ取るのは詐欺である。
→警察の領分であって,警察官を増員し,所轄の役所と協同を深めなどして対応すべきものである。
実力装置が強力になって個々の生活に入りこむのは(以下略)だが,まあ詐欺とか犯罪なら仕方ないよね,と思うことにする。
3. 「働きたくないでござる」とばかりに,実は働く能力があり,かつまた働く場所が実はあるにも関わらず退嬰的に浪費する者―最低賃金分ないしそれより上の額を受給し,それを”ただ寝て遊んで”消費する者,こうした者をこそ「我々」は心おきなく罵倒するのであった。彼らを,受給資格を吟味するなり,職業教育を与えるなり―で”締め上げ”たい,それが「我々」の欲望である。
なら,そうすれば宜しい。
行政組織を増員し,指導の権限を与えれば宜しい。寄宿制職業学校でも作るかね。
ということで,今の議論にしたがえば,さしあたり現行制度の手直し程度で一応対応ができると,まあそんな感じに落ち着くかと思われる。
ところで以上の対策の何れにおいても,公務員ないしその相当の人員の増員を意味し,もちろんコストがかかるのである。歳出が増えるのである。
もちろん,フードスタンプだとか,”今までにない,新しい冴えたやり方”を主張するのは結構だが,その場合でも新規事業のためコストはあるし,スタンプは印刷する必要があり,交換が適切に行われるかどうか監視する機関が必要となり,諸種物品の安定的供給のため業者も固定的になり―公務員の増員を意味する上に利権も結構発生しそうで,なんというか,かなり利権団体ばんざい!な感じだったりするだろう。まあno system is perfectとはよく言ったものだ。
―さあ諸君,どうする,どうしたい,或いは―どうなりたい?
…とまあ。「公務員は仕事しない」「先生は,なんかモニタとにらめっこばっかりで仕事してるっぽくない」「気楽に漫談してるだけで給料貰えていいよなー」とか思われがちだが,実は「気楽な漫談」のためにも結構情報収集し話し方の検討もし,空き時間を利用して原稿作りもしていたりするのである。
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