この最近,イタリア・フィレンツェ市,サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に岐阜市立女子短大や京都産業大学の学生さんがいたずら書きをしてきたってことで問題になってますね。
岐阜女短の時の,問題の落書きの画像を見ましたが,あの壁面,繰り返し落書きされ,そのたび消してますよね。周囲にわりと跡が見られたように思います。
まぁ世界中,いつでもどこでも行われた振舞いで,大きなお寺に行けば鐘楼や○○門なんてのにはいろんなステッカーが貼られてますね。爪で傷をつけて字を彫ったりも,けっこうあったものでしょう。
これについて,ちょっと対比的に見てしまったのは,オタクのあちこちの神社等での振舞いで。
彼ら,絵馬にイラスト描くやら「××は俺の嫁」とか書くやら,まあ冷静に一般人的見地からはキモい行動を取るわけだ。
それらは,絵馬には書いてはいるが,しかし特に祈願というわけではない。それらは,彼らが「聖地」に来たという証であって,まぁ絵馬の格好してるからそれっぽくネタ絡めて願いっぽいこと書いたりするわけだ。『仲間と一緒に昭和58年夏をのりこえられますよーに にぱー☆』みたいな。
…いや,書いてきてませんからね?
…行ってもいませんからね?
つまり大聖堂の大理石に油性マジックで(なんで「ゆせい」の第一候補が「油井」なんだ)おなまえ・がっこうめいをかいちゃったりするのと,概ね書き付ける動機は同じなわけだ。
そのうち,適切にその書付が処分される点も同様。
異なる点は,まずはオタク連中の絵馬は建築物に損害を与えない一方,学生さんの落書きは多少なりとも建築物本体に傷をつける点。
また異なる点は,学生さんたちはそれ以外の点では全く通常の観光客以外の何ものでもなく,その行動は風景に溶け込んで目立たない一方,オタク連中はどっからどーみてもアレな感じにキモさを漂わせる気がして怪しかったりする点。
そー見ると,オタ連中の「聖地」での絵馬書き行動って,本人たちに「聖地」巡礼にかかる満足感を与え,かつ不要に「聖地」を破壊しない,なかなか戦略的な行動とも見えてくる。誰が創めたのかしらね?
もし絵馬本体が地元で購入されるものなら,それは地元経済の足しになり,オタとしては「聖地」に対する,ある種のお布施ともなる。
彼らは居るだけで「キモーい」言われたりする存在であって,その行動は常にある程度,外部からの視線を意識したものとなることが想像される。
そこで彼らが雛見沢もとい白川郷とかに行った場合,絵馬を買い,それを巡礼の証として奉納?するのは,
1.彼らに「聖地」巡礼の満足感を与える
2.不要な文化財破壊を起こさない
3.少額ではあれ地元経済に貢献することで
3.1.オタに「お布施」をした満足を与える
3.2.非常に僅かながら地元経済のためになる。具体的には,神社維持のためになるんじゃないかとお金の流れを知らない人には思える
なるほどこうした効果がある。
外見上アヤシイのは否定し難い現実としても,オタはかくも慎ましやかに行動しているつもりなんだなと思った次第。いや大挙すれば結局目立つけど,上掲の「絵馬奉納?行動」を取る限り,彼らの来訪による(固有の)実害って考え付かない。
もし彼らが個々に神社に落書きしてたら,それはいろいろな意味で大変なダメージになる。ことを結びつける機会があるごとに,オタ趣味は悪の源泉と報道されがちで,だから絵馬書き行動は,彼らの欲望を適切に満たし,かつ社会的に問題のない(少ない)方法として選ばれたものかもしれない。
そう,外部からの視線。これは人の行動を規制する重要な要素のはずで―問題の学生さんたちは,そうした自制が利かなかったのだろうなと。
さてそこで,「お前はそういうが,じゃあ秋葉原でのオタクどもの醜行は幻だというのか,アレはまさしく現実であって,従ってオタクが社会的に非難されるべき存在である事は明白だ」という反論があるかと思いますが,あそこはたぶん,今度はオタが集まりすぎて,右を向いても左を向いてもオタはオタ,上掲議論でいうところの「外部からの視線」効果が期待できないのと違うかな。
それも一面,あれも一面,ですよ。
岐阜女短の時の,問題の落書きの画像を見ましたが,あの壁面,繰り返し落書きされ,そのたび消してますよね。周囲にわりと跡が見られたように思います。
まぁ世界中,いつでもどこでも行われた振舞いで,大きなお寺に行けば鐘楼や○○門なんてのにはいろんなステッカーが貼られてますね。爪で傷をつけて字を彫ったりも,けっこうあったものでしょう。
これについて,ちょっと対比的に見てしまったのは,オタクのあちこちの神社等での振舞いで。
彼ら,絵馬にイラスト描くやら「××は俺の嫁」とか書くやら,まあ冷静に一般人的見地からはキモい行動を取るわけだ。
それらは,絵馬には書いてはいるが,しかし特に祈願というわけではない。それらは,彼らが「聖地」に来たという証であって,まぁ絵馬の格好してるからそれっぽくネタ絡めて願いっぽいこと書いたりするわけだ。『仲間と一緒に昭和58年夏をのりこえられますよーに にぱー☆』みたいな。
…いや,書いてきてませんからね?
…行ってもいませんからね?
つまり大聖堂の大理石に油性マジックで(なんで「ゆせい」の第一候補が「油井」なんだ)おなまえ・がっこうめいをかいちゃったりするのと,概ね書き付ける動機は同じなわけだ。
そのうち,適切にその書付が処分される点も同様。
異なる点は,まずはオタク連中の絵馬は建築物に損害を与えない一方,学生さんの落書きは多少なりとも建築物本体に傷をつける点。
また異なる点は,学生さんたちはそれ以外の点では全く通常の観光客以外の何ものでもなく,その行動は風景に溶け込んで目立たない一方,オタク連中はどっからどーみてもアレな感じにキモさを漂わせる気がして怪しかったりする点。
そー見ると,オタ連中の「聖地」での絵馬書き行動って,本人たちに「聖地」巡礼にかかる満足感を与え,かつ不要に「聖地」を破壊しない,なかなか戦略的な行動とも見えてくる。誰が創めたのかしらね?
もし絵馬本体が地元で購入されるものなら,それは地元経済の足しになり,オタとしては「聖地」に対する,ある種のお布施ともなる。
彼らは居るだけで「キモーい」言われたりする存在であって,その行動は常にある程度,外部からの視線を意識したものとなることが想像される。
そこで彼らが雛見沢もとい白川郷とかに行った場合,絵馬を買い,それを巡礼の証として奉納?するのは,
1.彼らに「聖地」巡礼の満足感を与える
2.不要な文化財破壊を起こさない
3.少額ではあれ地元経済に貢献することで
3.1.オタに「お布施」をした満足を与える
3.2.非常に僅かながら地元経済のためになる。具体的には,神社維持のためになるんじゃないかとお金の流れを知らない人には思える
なるほどこうした効果がある。
外見上アヤシイのは否定し難い現実としても,オタはかくも慎ましやかに行動しているつもりなんだなと思った次第。いや大挙すれば結局目立つけど,上掲の「絵馬奉納?行動」を取る限り,彼らの来訪による(固有の)実害って考え付かない。
もし彼らが個々に神社に落書きしてたら,それはいろいろな意味で大変なダメージになる。ことを結びつける機会があるごとに,オタ趣味は悪の源泉と報道されがちで,だから絵馬書き行動は,彼らの欲望を適切に満たし,かつ社会的に問題のない(少ない)方法として選ばれたものかもしれない。
そう,外部からの視線。これは人の行動を規制する重要な要素のはずで―問題の学生さんたちは,そうした自制が利かなかったのだろうなと。
さてそこで,「お前はそういうが,じゃあ秋葉原でのオタクどもの醜行は幻だというのか,アレはまさしく現実であって,従ってオタクが社会的に非難されるべき存在である事は明白だ」という反論があるかと思いますが,あそこはたぶん,今度はオタが集まりすぎて,右を向いても左を向いてもオタはオタ,上掲議論でいうところの「外部からの視線」効果が期待できないのと違うかな。
それも一面,あれも一面,ですよ。
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