「多度大社」三日目は、大鳥居から真っ直ぐに続く参道。その途次途次に出会う様々な歴史を刻む石造物たち。
スタートは明和六年(1769)十月十二日、『恵方庵富無三』建立の「落葉塚」芭蕉句碑。貞享元年(1684)十月【野ざらし紀行】の途次、同門の『本因』と桑名へ向かう時に多度権現で詠まれたもの。
【 宮人よ 我名を散らせ 落葉川 】(宮人よ、川が落葉を掃き流すように、私の名が見えるこの落書きも、掃き流してくれないか)
落葉塚と背中合わせにある白砂の神域。
高知県出身の俳人『右城 暮石(うしろ ぼせき )』の句碑【 上げ馬を あげしどよめき 多度祭 】
【 曉(あかつき)の ほしやこほれて うめの華 以年七十五 碌々翁 】芭蕉の流れをくむ一派の宗匠を務めた「棚橋碌々翁」と想像しますが確実ではありません。
ざんばら髪を振り乱し、片足を高く上げて駆ける男の線画が刻まれた『玉護』の狂歌碑。【 ミなかみの 流の末カノ 民なれは やまと心の 濁るへしかハ 】
狂歌師『玉護』の人物像、色々調べてみましたが不明。
多度神社に山林42町9反(東京ドーム9個分)を寄付した『伊藤紀兵衛』の碑。 明治・大正・昭和初期の桑名を代表する資産家で、納めた所得税は当時の県下では最高額だった人物です。
手前にあるのは「天明二年洪水始末碑」。天明3年の御手伝普請のことを記した石碑で、裏面には、普請を担当した幕府方など、各藩の武士の姓名が刻まれています。
天明二年(1782)と言えば、日本中が冷害、長雨等の異常天候に見舞われ、多くの餓死者を出した年代。いわゆる「天明の大飢饉」と呼ばれた一大事が起こり始めた頃です。残念ながら碑に刻まれた漢文を読み解く才も気力もない為、藩名 日付、地名など、文字に起こされた文面を見ても断片的にしか読み取れません
参拝向きとは言えませんが、雨に触れた境内は殊の外美しく、足元に咲く花たちは皆一様に生き生きと輝いています。
すでに巌と化しつつある「さざれ石」。苔むしたこの石が過ごした年月は一体どれほどだったのか・・
「筆塚」は、使い古した筆や筆記具を埋め,その供養のために築いた塚の事。 賽銭箱の傍らには、そうした筆を収納するカゴが置かれ、参拝者によって沢山の筆が納められています。
幾多の燈籠の中に隠れるように奉納された「織部灯籠」。この面からは経文のような文字が見えるのみです。
「神宮」「橿原」「皇居」と刻まれた方位盤。
多度大社境内入り口右手に檜皮葺の建物。入り口に注連縄がある事を見れば、おそらくは神職の方に関わる建物と思われますが、詳細は不明です。
多度大社、明日は上げ馬神事の説明を経て境外へと移動します。
参拝日:2011年4月9日&2017年3月28日